安達正興のハード@コラム

Masaoki Adachi/安達正興


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日本帰省日記 (15) 五輪教会
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( 2017年 2月 4日
曜日)


●久賀島(ひさがしま)の展望台
「牢屋の窄記念教会」久賀湾を左に北へ向かって狭く折り曲がった道をミニバスがゆっくり走る。キリシタンが隠れたこの島の山中には道がなかった。そこを観光のためになんとか車が通れるようにしました、という風情。たった一度だが対向車に出くわした時は、すれ違える場所まで相手がバック、といえギリギリだから、路肩が緩んでいたら、谷へ落ちます。スリルがあった。

  
  ↑ 折り紙展望台から望む
しばらくすると「折り紙展望台」という標高200mぐらいか、島の集落と対岸の小島の向こうに、奈留島が見える。反対側は青い海が地平線まで続く。見晴らしはさほど感激しませんが、暗い森の中を抜けてくると、パっと開ける展望に一瞬Oh!と声が出る。とはいえ、別にベンチのほかは何もない。土地の人が地ならしして頂上下に作ったという。そう聞けば、いじらしいかな、天気も良くトックと見納めました。それから、先回「牢屋の窄記念教会」からとした展望写真は誤まり−「折り紙展望台」からの写真でした。訂正。

●新・旧五輪教会
久賀島の西にある小さな漁港、山が迫る細い海岸の少しばかりある平地に新旧の五輪教会が並んで立つている。


 ↓手前左に旧五輪教会、こやを挟んで右に新五輪教会
信教の自由が保障されたのは明治6年後。パリミシヨンによる布教活動と教会建設が始まった。マルマン神父(パリミシヨン)が五島のキリシタンと共に明治14年(1881)になって浜脇に木造教会を立てた。

しだいに増える信徒で手狭になり、老朽化が進んだので同じ場所に前回の浜脇教会が立てられたのであるが、五輪の信徒たちから「当地に教会を」と熱望されて、ここ五輪の入り江に移築されたのである。
そして半世紀、老朽化がさらに進んだため昭和60年(1985)、解体してその上に新しい教会を建てるということになった。しかし解体寸前に、島で最古の建築文化財を守る運動が起こり、隣接して「新五輪教会」建設されることになったのである。何が幸いするか、「旧五輪教会」は今や五島で一番の教会文化財として国の重要文化財に、さらに国連文化遺産にと申請された。

では旧・新の順にガイド氏の案内で拝観しよう。

「旧五輪教会」の入り口で、隠れキリシタンの孫、代々信徒のふくよかなガイド氏だが、小さい頃、信徒たちはとてつもなく貧乏、山の家から通うふみ道は遠く、弁当は少しの麦飯だけで他の子のおかずの入った弁当に比べ悲しかったという。

 瓦屋根など家のような和風の外観。

驚きました。ノルウェーの小さな集落には今でも同じようなゴシック様式
の木造教会がたくさんある。天井の木組みや祭壇の形式、異なるのは窓枠の和風か。窓は外からも見えるので和風にしたのかな。この教会を設計した人物は不詳という。施工もうまい。パリミションの宣教師が率先して建立したとされるので、この宣教組織はその当該国の伝統を尊ぶことだった。それで外観を和風に、内部を押収教会建築の伝統を生かしたと思われる。

 ↑ ひし形格子の窓から、心なごむ五輪の入り江が美しい。

●幼子イエスを抱くヨセフ
 
拙子がもっと仰天したのは祭壇の聖像だ、マリア像ではない、ヨセフが生まれたイエスを抱いているヨセフ像なのです。祭壇に置かれたヨセフとイエスの像は家内も初めて見たそうです。マリアを抱くヨセフの聖像はイタリアに行けばたまにあるが、しかし新教の者にはまず目にしないものですから目を丸くした。

なお、「五輪真弓」(いつわ)という歌手が、この村の出身だという。拙子は全然関知せず。五輪教会はゴリンが一般的な読みだが、ガイド氏によると本当はイツアが正しいとのこと。
またあちこちに「野茂」という苗字の市議会ポスターを見たが、野球の野茂英夫は祖父が奈留島の出身であるという。
 






Pnorama Box制作委員会


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