安達正興のハード@コラム

Masaoki Adachi/安達正興


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日本帰省日記 (14) 牢屋の窄殉教記念教会
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( 2017年 1月 31日 火曜日)


●久賀島の「牢屋の窄殉教記念教会」
窄(さこ)とは難しい漢字である。搾取ならよく使う熟語で意味もわかっている。だがこの窄にはテ編がない。しかもガイド氏の説明では「牢屋のさこ・・」と聞こえ、聞いてみると、「さこ」が正式名である。また久賀島を「ひさがじま」と読むのは知っていたが、

さて狭窄(きょうさく)と打つと、このが出ました。「窄」の意味は、ガイドさんが案内してくれたので明らか、狭窄と同じ意、すなわち、「隙間なくぎゅうぎゅうに詰める」ことである。

江戸時代の禁教令で隠れた五島列島のカトリック信徒は、代官がウスウス聞き知っていても、捕手不足から、捕縛し弾圧することはマレだったが、明治を境に起きた浦上村信徒を根こそぎマワにかけて各地の藩に配流された際には、明五島列島に及び、明治元年、久賀島の信徒ら200名が捉えられ、先に捕らえられて福江の牢にいた23名を加えて、人里離れた島の中程の高台12畳ばかりの牢屋を建て、全員を詰め込んだのである。

広さ12畳、そこへ223人も入りますか? 17人/畳一枚の勘定試せばわかるが直立したまま、身動きできない。男女を板で囲い、子供もいる。もちろん大小の排泄は立ったままの垂れ流し、汚物まみれで立ったまま眠るのである。

●島の中央高台、牢屋の場所に立つ
「牢屋の窄殉教記念教会」は1969年に島の細石流教会、永里教会、赤仁田教会の3教会を統一して建立されたのであるが、1984年(昭59)実際に牢屋があった場所に建設された。長い石段を上るのがシンドイ。家内は普通ならパスするところを、殉教者に鎮魂の祈りを・・と手すりにすがって登り切った。下るのはもっと大変何ですけどね。

牢屋の窄殉教記念教会の内部は、床敷きが牢屋の広さに枠どりしてあり、いかにぎゅうぎゅう詰めだったか、言葉を失う。

●久賀島カトリック信徒囚獄の跡
と、題した石碑に、囚獄の様子が千字ぐらいに記されている。その数行をはしょって書き写す。「13歳のドミニカはは蛆にか下腹を食い破られて死亡。熱病に頭髪が落ち、『私はパライゾ(天国)へ行きます。お父さんもお母さんもさようなら』と言い残して死んだのは10歳の子、その7歳の妹は 『イエス様の五つの御傷に対して祈らねば』と言い残して息が絶えた。

●改宗へのアメとムチ


↑牢屋から久賀湾を望む。わざと風光明媚な高台に牢屋を立て自然の美と拷問で改宗を迫った。

牢屋の高台から海の見える景色がいかに美しいところでも、雨戸を閉めた牢内は昼でも暗い。拷問のため外へ連れ出され、「どうだ、この素晴らしい島の景色。信仰を放棄すれば、毎日この美しいお前さんの生まれた島のどこだろうと自由に」生活できるぞ」、とつけ入り、同時に様々な想像を絶する拷問にかけた。多くの子供も耐えて、棄教したものは一人もいない。8ヶ月余りの間に42人が殉教した。身の毛もよだつ恐ろしい拷問の方法はキリシタン迫害史にあきらか、拙子は素通りする。拷問に耐えて残った者が釈放されたのは三年のちのことである。

●隠れおおせた信徒は餓死
無事、捕らわれずに隠れぬいた信徒もいて、その廃屋が今も山中に残っており、隠れ小屋でミサを続けていたそうだ。しかし今までのように、島人の来ない入江の奥で早朝、網を投げて魚を獲ることはもちろん、山菜や木の実を探して山中を歩くことは危険だ。食べるものがなくて子供、女から順々に逝き、最後は全員飢え死にしたという。

●信仰の碑
教会の裏地には十字架の下に「信仰の碑」と彫られた記念碑を中心に、殉教者たちの洗礼名と苗字、信仰の言葉を刻んだ墓石が並ぶ。ドミニカ13歳の墓石にはあの最後の言葉が記されていた。








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