安達正興のハード@コラム

Masaoki Adachi/安達正興


------- ----------------------------------
日本帰省日記 (11)
------------------------------------------
( 2017年 1月 16日 火曜日)


●11月11日 五島列島へ
長崎の西の海に浮かぶ五島列島は隠れキリシタンの里である。長崎から高速フェリーで1時間25分、フェリーなら3時間10分かかるので長崎港から島は見えない。かなり九州本島から離れているので、キリシタンが二百年あまり潜伏していたという奇跡が生まれた。おそらく幕府はいちばん大きな島・福江島に置いた代官の知らせで知っていただろうが、実害もないことで見ぬふりをしたのだろうか、追っての一団を派遣することはなかった。

それにしても、子から孫、ひ孫、玄孫(やしゃご)その次はなんというのか知らないが、神父も修道僧もいなかった時代もあったというのに、何代にもわたりキリシタン信仰を守って来たのは茫然自失の驚きである。ま、拙子らは既知のことだから気楽な観光ムードなのだが、大浦天主堂の門に佇んでいた15人足らずの人々を見たプチジャン神父の驚愕と感動の逸話を肝に明記しておきたい。

●浦上隠れキリシタンの場合
ここで1865年、明治維新の4年前に長崎で起こった有名な出来事を書いておきたい。
〔昨日の2時半ごろ、12名ないし15名ほどの男女が、教会の門前に立っていました。ただの好奇心で来たものとは、なにか様子が違っています。わたしは急いで門をあけ、祭壇の方へ進んでいくと彼らも後から付いてきました。わたしがひざまづいてほんの少し祈った後でした。40歳か50歳くらいの女性が、わたしに近づき、胸に手をあててささやきました。
 「ワレラノムネ、アナタトムネトオナジ」
 「ほんとうですか、あなたがたはどこから来られたのですか」
 「わたしたちは、浦上のものです。浦上のものは皆、わたしたちと同じ心を持っています」
それからその人は、わたしにこう尋ねました。
 「サンタ・マリアのご像はどこ?」
「サンタ・マリア」このことばを聞いて、わたしはもう少しも疑いませんでした。わたしの前の人たちは、日本のキリシタンの子孫に間違いないのです。

●善意から出たプチジャン神父の舌禍
司祭不在の中、7代にわたり2百四年の間、信徒たちはその信仰を守り、伝えてきたの。ところがことは思わぬ悲劇を速めた
大浦天主堂を建てたパリ・ミション(パリ宣教会)のプチジャン神父は浦上信徒を励ます意図で、日本はもうすぐ新しい民主主義の国になる。キリスト教徒への迫害が終わりますからもう隠れていることはありませんと慰めた。それで浦上の隠れキリシタンたちはもう隠さなかったのだが、さて明治維新になるや禁教令が発せられ、迫害はますます激しくなったのである。すでに明治元年には「神仏分離令」によって廃仏毀釈が始まった。

拙著『奈良まち 奇豪列伝』ヴィリヨン神父の項「浦上四番崩れ」ではプチジャン神父の口禍につては言及しなかった。カトリック正史では語られず、否定されるからである。が、この迫害でなくなった後裔の信徒の方から、「神父からもう出てきても良いよ」と言われたのです」と淡々と手短に拙子に話されことがある。

皇道派の意見が強く、国粋主義者たちは神道以外は許さず、押されて政府は明治元、「神仏分離令」に続いて翌2年にはキリシタン「禁止令」を出す。浦上全村の3,394人が、男女年齢を問わず根こそぎ捕縛、西日本の各地に配流されたのである。








Pnorama Box制作委員会


HOMEへ戻る