安達正興のハード@コラム

Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・県公会堂
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( 2016年 10月 27日 木曜日)


●自殺した棟梁 仙吉
廃仏毀釈の余波によって、春日大明神を遥拝するお堂「四恩院」が廃絶された。堂の様式が仏式だからでしょうか、大明神の分祀社であっても神祇たちが放擲した。明治初頭は、皇国過激派を助長する政策の失敗で、類例のない狂気の年月であった。この」「四恩院」の跡地に公会堂、いわゆる北の一号館(平屋建て)が明治三十六年に建てられた。

一号館

設計は県の当時は古社寺建築技師であった土屋さん、工事を請け負ったのは中御門の棟梁仙吉さんというお金のことは眼中にない名人で、一流の大工を使って仕上げて喝采を浴びた。のですが、予算をすっかりオーバーして大工さんに払いができず、責任を取って新築なった公会堂の中で自殺したのです。

●明治天皇、大正天皇の宿舎にも
今はなき一号館の続きです。明治四十一年に飛火野で陸軍特別大演習の時、大本営をこの公会堂一号館に措き演習を統監、ということは壇上の座椅子から毎日見学されたので、その間4日ほどお泊りになられたのが一号館だった。大正五年には大正天皇と皇后陛下が神武天皇二千五百年紀元節に参拝の折にも、宿泊所になっている。

●東条英機が叱咤激励
戦争たけなわの昭和十七年、東条英機首相が奈良県に回ってきて、県下の指導者50名余を公会堂に集め、「討ち手し止まん、国民一丸となって」などと戦意高揚をブッタ。そして参会者全員に羊羹一本を贈って激励したっという。郷土史家の故山田熊雄さんが書かれている。

南の2号館は、明治二十二年に奈良の銀行家たちが倶楽部に建てたのを、明治三十三年に県が買収し公会堂に利用した。現今、かような豪壮なクラブを建てる銀行家はいなくなりました。今の頭取は忙しいだけでオウナーではありませんから。

二号館

●公会堂のなが消えた
北の一号館も2階建ての南2号館も老朽化で閉館、2号館の跡地のあたりに大きな「新公会堂」が平成元年に開館した。現在は新公会堂と言わず、『奈良春日野国際フォーラム 甍 I・RA・KA』と余分だそうです。ついていけませんな。数年前に一度、能舞台を鑑賞し、レストランで食事して、庭を散歩しました。なかなか結構な按配でありました。

また、別館として「シルクロード交流館」があり、これが昔の一号館のあたりか。ここへも一度入りましたが、いまいちでした。



『奈良春日野国際フォーラム 甍 I・RA・KA』裏からの外観






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