安達正興のハード@コラム

Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・岸田日出男
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( 2016年 10月 16日 日曜日)


●身命を賭す覚悟
身命を賭すとか、火だるまになってでも、との言い回しは政治家の常套句である。嘘っぱちである。敗戦の責任から自殺した軍人数名、橋田文部大臣、近衛文麿首相がいるが、その他の自殺政治家は病苦やノイローゼ、大平正芳首相は過労死であった。

政治家ではない市井の社会運動家に身命を賭す覚悟の人は奈良にもいた。平城宮跡保存に奔走した棚田嘉十郎がそうであり、「吉野熊野国立公園」の父と言われた岸田日出男(1891-1959)もそうである。彼は嘉十郎のように自害はしなかったが、『吉野原始林が保存されるならば私は割腹に替えても惜しくない』と吉野群山の保存に狂奔した。幸い指定が決まったのでよかったものの、外れたら、切腹は大いにありうる人士である。

●狼の里に生まれた高取の人
岸田日出男は明治23年、高見村、現東吉野村に生まれた。戸籍上は入籍が遅れたので24年生まれ。通学のこともあり、高市郡高取町に住む。父・岸田楢造(六田駅に頌徳碑あり)は高取藩士の家に生まれているので、拙子母方の曽祖父と高取城で同僚だったわけだ。くだらないことなのに親近感を覚える。

氏は県立農学校から吉野郡役所に勤務、大正時代のはじめに県庁に入って林政、観光に携わる。県庁に入ったころ、森林自然保護の話を先覚者諸先生から聞き、その助言を受けて、吉野と熊野にまたがる、ということは奈良、和歌山、三重の各県を抱合する「近畿国立公園助成同盟会」を結成(1931)し、自ら幹事となり身命を賭して狂奔するのである。

政府は大台ケ原に限定した国立公園を考えていた。何しろ吉野山は民有地が多い。開発と観光と自然保護の調整に、岸田日出男はどうやって国立公園指定(1936)にこぎつけたのか、政府案を覆した氏の苦闘のほどが察しられる。前項の割腹発言はこの苦闘時代に発せられたものである。

氏は幾多の論文の他に、古老や猟師32名から絶滅前のオオカミに関する106件の聞き取りを記録し、その後全国に伝わる狼目撃談を加えて『日本狼物語』を草稿中に逝去、その遺稿が1964年、特集として「吉野風土記21、2-41」に掲載された。最近、『日本狼物語』が秩父宮記念三峰山博物館から復刻版が出版された。

●橋本凝胤が岸田日出男顕彰碑を発願
大峰山、西ノ覗き岩から50mのところ、即ち、山上ヶ岳竜泉寺宿坊手前の参道脇に「岸田日出男顕彰碑(けんしょうひ)が建つ。1960年に「県文化賞」を追贈され、これを機会に自然保護協会の会長であった傑僧・橋本凝胤師が中心になって浄財を募り、顕彰碑を建設した。

↑大峰山上ヶ岳の岸田日出男顕彰碑 1961年の除幕式には高田好胤(橋本凝胤会長代理)や万葉植物の小清水卓二博士らが参列。凝胤師は高齢のため無理だが、参列者40名が、ここまでよく踏破されたと感心する。銅板レリーフは実物大、奈良市高畑の彫刻家・故-吉川政治氏の作。

↑裏面の碑文は顕彰碑建設を推進した薬師寺管主橋本凝胤の筆。凝胤師は豪快な能筆で知られ、揮毫した書は数多い。が、この碑文は読みやすさを意図されたのか、珍しく公文書のような楷書である。

岸田日出男翁ハ高市郡高取町ノ人ナリ県立農林学校ヲ卒ヘ 林務ニ携ワリ 奈良県農林技師トナル 吉野熊野國立公園ノ指定ハ翁ノ盡力ニヨル・終生ソノ推奨スル吉野群山ノ原始林保護ニ東奔西走 昭和三十四年四月六日急逝ス 満六十有七 翁ヲ知ル者議シテ像ヲ彫リ 功ヲ永遠ニ讃フ 昭和三十六年八月 吉野熊野自然保護協會長 薬師寺管主橋本凝胤






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