安達正興のハード@コラム

Masaoki Adachi/安達正興


------- ----------------------------------
奈良零れ百話・唐招提寺の三歌碑 (3)
------------------------------------------
( 2016年 10月 2日 日曜日)


最終回です。北原白秋といえば、♪からたちの花は咲いたよー、♪この道はいつか来た道、♪雪の降る夜は楽しいいペチカ、♪雨はふるふる 城ヶ島の磯に、など唱歌・童謡があれもこれもと出てくる。「からまつの林を抜けて からまつの林に入りぬ からまつの林に入りて また細く道は続けり..」なんてのは教科書で習いましたな。

ですから、奈良とさほど関係のない白秋ですが、この地に歌碑があることは喜ばしい。白秋の歌碑は全国的にも五指を出ないほど少ないので自慢できる。

●北原白秋の歌碑
開山堂の北側、御影堂に対面して北原白秋の歌碑がある。

水楢の 柔き嫩葉は み眼にして 花よりもなほや 白う匂はむ

達筆、白秋の自筆に似ているように見えるが、小生にはわからない。だいいち難しすぎて読めないのだから。横に振りかな付きのた立て札があるので参照して初めて、ああそうかと頷くのである。

ところで水楢だが、ドングリができる落葉樹のナラの木の小型で、ミズナラの名から柔らかそうだが、葉はギザギザで硬い鋸歯だ。冬枯れして落ちる時はカラカラです。「柔き嫩葉」・の「」は音読みでドン、大辞林に〔1. 植物が芽を出した時に見られる二枚の葉。2. もののごく初期〕、訓読みは〔わか〕である。しかし楢の木は若葉でも柔らかくない。また白秋の童謡「赤い鳥小鳥なぜなぜ赤い、赤い身を食べた」に順じて、水楢の硬いドングリを食べた鳥はどうなるのだろう?剥製になる?

など取り留めなく詮索する悪いクセが出てしまった。先に進もう。

●四度鑑真和上を憶ふ
歌碑の一首は歌集『黒檜(くろひ)』(昭和15年)に収録されている。関連する歌を列挙すると:
【鑑真和上】昭和十一年盛夏、多磨第一回全国大会の節に拝しまつりし唐招提寺は鑑真和上の像を思ふこと切なり、と頭がきして次の3句がある。

【鑑真和上木像】再び唐招提寺の和上を憶ふ。芭蕉に句あり 若葉しておん眼の雫拭はばや、と頭がきして一種。

そして、【四度、鑑真和上を憶ふ】に芭蕉の句を付して頭書とし、表題の「水楢……」の歌があり、これを弟子たちが歌碑に選んだのである。

白秋は52歳の時、眼底出血を起こしてから徐々に視力を失いない、鑑真の境遇に想いを寄せ芭蕉の句に啓発されてできた歌でもある。もちろん数多のシチュエーションで自己の失明を歌に吐露しているのであるが、鑑真を憶う歌の一つが歌碑になったのは嬉しい。

●はめ込み銅版プレートについて
写真のように粗面の凝灰岩に、歌碑を打ち込んだ銅版プレートが嵌め込まれている。銅版の厚みが足らず安っぽい印象を拭えない。歌碑の裏側に熱い銅板の腐食による活字文字の凸出しで、補足解説があるが、なぜ裏が厚てで、正面が薄てなのか理解しがたい。

ダンディな白秋だが、自分の歌碑建立を嫌い、生前に許可したのは二つぐらいしかない。この歌碑は弟子たち有志が白秋没後に家族の承諾を得て1980年に建立した。草書の筆勢は自筆に似ているが、白秋が生前に色紙に墨書したものでもあるのか、と白秋の少ない自筆、短冊や掛け軸の草書(破格に高価)をネットでくまなく調べて比較してみたがない。別人書道家の筆と思う。

●よく歩いた界隈
10年余り前までは、帰省時に西ノ京の姉の家で居候していた。唐招提寺と薬師寺の中ほどにあり、どちらへも歩いて10分たらずなので、何度か拝観料を払って入ったが、艶やかな僧衣をまとうよいうになった坊さんに立腹して、近年はご無沙汰している。

なお、唐招提寺には水原秋櫻子の、〔蟇(ひきがえる)鳴いて唐招提寺 春いづこ〕や奈良県高取の人、阿波野青畝(せいほ)の〔鴟尾(しび)今日の 日を失へば 夕牡丹〕の句碑もあります。






Pnorama Box制作委員会


HOMEへ戻る