安達正興のハード@コラム

Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・唐招提寺の三歌碑 (2)
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( 2016年 9月 29日木曜日)


唐招提寺三歌碑2回めは會津八一の歌碑について

●會津八一の歌碑
    おほてらの まろきはしらの つきかけを
    つちにふみつつものをこそ おもへ    八一

「鹿鳴集・南京新唱」にある一首、金堂の西側、正面左にある。自作の歌を石碑に彫る際には、必ず原寸で墨書した和紙を送付した。これを直接石碑に貼り付けて薬研彫り(ノミで筆勢、筆圧に合わせて深く彫る)するのである。一見して会津八一・秋艸道人の自筆とわかるのが嬉しい、というのも人気のある所以でしょうか。
この歌碑は昭和25年、會津八一の古希祝賀会が建立した。このころは、道人は以前に使っていた変体仮名をほとんど使わず、旧仮名遣いを用いた。ここでも「お」に「於」を使っているほかは、すべて平がなでとっつきやすい。

●創作の経緯を明かす
随筆・渾齋隨筆によると、この歌を読んだ日は夕方、法隆寺の回廊の丸い柱の影で上の句を口ずさみ、夜、唐招提寺で下の句を読み据えた、と書いて創作の経緯を明かした。だから、法隆寺回廊辺りに置いても似合う歌碑ではあるが、回廊の柱と金堂の柱では格が違う。
唐招提寺金堂では、基壇の外、月夜の地面に影を落としていたのであろう。いわば鑑真が渡来して建立された奈良時代の影である。今では拝観に門限があるから、月夜の金堂を散策することはできないが、「土に踏みつつものをこそ思へ」とは、誰でも共感できる。道人さすがにうまい。

●エンタシス?
唐招提寺金堂の正面は外側に8本のわずかに下脹れした優美な円柱が、中央から両端にゆくに従って間隔が短くなるという、絶妙の配置で重そうな屋根を軽快に支えている。石造文化であるギリシャ・ローマのエンタシス石柱の影響などない。法隆寺の場合は柱の中程に膨らみをもたせた「胴張り」と呼ばれエンタシスに似ているが、ひとえに当時の匠が考え出した美意識による形である。唐招提寺では、上に行くほど細く、礎石に載せたところでキュっと締まる。これを下ブクレ円柱と呼ぶのは拙子のお愚かな造語だが、エンタシス型と軽薄に言いたくない!

●碑石は古墳時代の石棺のフタ
下鳥羽伏見に300年の歴史ある蔵元に増田徳兵衛商店がある。「月の桂」の蔵元で、創業者の徳兵衛さんが、飛鳥地方で田んぼの石橋に使われていた古墳時代の石棺の蓋を見つけ、自宅に運んでおいた。第十代目かの蔵主・増田徳兵衛は道人の知己を得ていたのか、自宅に置いてあったこの古代の石棺の蓋を碑石に申し出たところ、安藤更生ら祝賀会の面々が古代の姿を生かして研磨せずに利用することにした。

飛鳥の古墳群には石館や、馬像などに、二上山から切り出した「松香石」と呼ばれる加工しやすい凝灰岩が最も多く使われている。こういう凝灰岩の自然石をそのまま碑石にすると、表面がもろく汚れも付きやすく、写真でも下部に泥土が付着して黒ずんでいるのが見える。

文字は増田家に出入りしていた石屋が彫ったのだが、道人は気に入らず、筆意が出ていないと彫り上がってから拓本に朱筆を入れて修正させている。道人は大らかで広い空間を詠む人だが、けっこう些事にうるさく、弟子には厳しい先生だった。一度ツムジを曲げると、あの日吉館のキヨノさんですらオロオロ平謝りしても、怒って宿を出ていったという逸話がある。






Pnorama Box制作委員会


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