安達正興のハード@コラム

Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・若草山今昔
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( 2016年 9月 24日土曜日)


●想い出の山焼き
遠くから見る若草山は、4月ともなれば全山緑の芝生で本当に美しい。が、拙子の記憶にある若草山は、さほど綺麗でなく、土が露出している部分があちこち目がついた。新聞の題字を集めていた頃、観光客が食べたお弁当の包み紙、新聞紙を目当てによく登ったが、愛媛新聞、神戸新聞、中部新聞など県外新聞の題字を破り取り、東北新聞を見つけると宝物が見つかったようにおおよろこびしたものです。

寿司を包んでいた竹の皮を尻に斜面を滑り遊び、げた履で登る人もいて、芝生は傷みさほど綺麗ではない。一度、父の出身地・新潟からスキーを兄弟にもらったので、ローンスキーに若草山の斜面でトライしたが、全然滑らなかった。滑りだすとすぐ転び楽しいものではない。

当時から入場料を取る場所があったようにも思うが、どこからでも潜り込めるので払ったことはない。
これでは芝生が荒れるはずだ。だから今、登山路があり、若草斜面のどこを歩いても構わないのに、登山路と頂上の展望場所の外を歩くのを遠慮しているようだ。日本人の公共マナーは近年大変良くなった。小生ガキの頃とえらい違いだ。

●山焼き観光の試行錯誤
麓で昼間から漫才、手品、浪曲、芸子さんの踊りがあり、宝くじなどアトラクションが賑やかだった。戦争初期は仕掛け花火に戦争を鼓舞する惹句があぶり出され、末期は爆撃の目標になるというので、山焼きを昼間に行っている。

昭和25年前後に、市内上空から飛行機が宣伝ビラを撒いたり、文字広告を尾翼からなびかせ飛んでいたが、山焼きでも飛行機やヘリから景品引換券を播いていた。

またこの頃、ヘリからみかん撒きや、宝探しで芝生が荒らされ、ロクなことはなかった。見物客招致のために始めた余興や催しは多くが失敗に終わり、試行錯誤の末、柵と入山口(入場料)の整備、青芝が成長するまで閉山措置、登山路整備、といった現在のような対策が考案された。めでたしめでたしである。ま、自由に遊んだ拙子ガキの頃の楽しさは消えたが…。

戦前の山焼きは2月11日の紀元節に行われたが、敗戦後は具合が悪いので1月115日の成人式に変更された。2000年〜2008年は成人の日(第2月曜日)の前日(日曜日)に変更したものの、わかりにくい上に、民間消防団員が集まりやすいように、一週間ずらして一月第三土曜日にした。すると今度は花火の時間と大学入試センター試験の英語ヒアエリングが重なるというので、苦情があり、さらに一週間延ばして、一月第四土曜日になった。2009年のことで、以来変わらず、落ち着いたようだ。

現在、麓での昼間のアトラクションは控えめにただ見るだけ、持ち寄ったお正月のしめ縄でトンドを焚くこともなくなった。花火は二重め山頂から打ち上げられ、観客が体で参加する催し物はない。

●ウグイス塚の桜
三重め頂上、ウグイス塚の北側に数本の桜が植わっている。もっとたくさん植えられたのだが、一重め北側の柵外に沿って並ぶ桜はよく根付いた。これらは大正13年、皇太子(昭和天皇)ご成婚記念として奈良市実業家協会(商工会議所)が種々の桜1800本を植樹し、「ひと目千本桜」と言わしめたのだが、植樹した若木の時に鹿どもに食われたのでしょうか、半分も育たなかった。






Pnorama Box制作委員会


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