安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


------- ----------------------------------
奈良零れ百話・雑司町
------------------------------------------
( 2016年 9月 5日 月曜日)


雨の多いことで有名なわが町ベルゲンで、今夏、記録的な雨量を記録した。普段は「狐の嫁入り」のような雨。2週間フル続いて。一週間が晴れと言われるが、今夏は珍しくドシャ降りが多く買った。本日はしかし快晴の日曜日、久しぶりにヴェランダで肌を焼きました。

●三笠温泉のプール
ある年の一夏、昼間は暑くて汗が画紙に落ちて、やっておられん。ほとんど毎日、三笠温泉行きバスに乗って三笠温泉のプールへ行った。温泉の宴会客や泊まり客は、夕方からなので、昼間は誰も客がいない。外部からもプール専用の入り口があって、見晴らし絶好のプールを独り占めできるとあって、毎日通ったのである。時間は制限されていないので、涼しくなるまでノホホンと長居できる。で、帰りは家まで1時間、バス代を倹約して歩いて帰る。

●はじめて見た雑司町
そんなある日の帰り、正倉院の北側裏道を歩いていて、何気なく北へ入る道にブラリと踏み込んでびっくりした。タイムマシーンで江戸時代の家並みに迷い込んだような……道幅があり石垣の側溝が深く広い。屋敷と言える民家の中には藁葺き屋根もある。夏の道路には人っ子一人いない。二本差しのサムライが現れてもおかしくない時代劇に見るような雰囲気だった。入った古い町並みが雑司町の北端になる。

拙子は少年の頃、雑司町へは「校区」が違うので近寄らなかった。変な話だが子供は校区が違う町内へは遊びに行かないものである。そのせいか、校区と無関係の小中学校に通った拙子ですら、大人になるまで雑司町へは近寄らなかった。今はその頃の面影もなく、家並みが新しくなったが、「五却院」の向かいあたり、蔵屋敷風の建物がある。

●東大寺領内の境内町
雑司町は、東大寺の大仏殿はじめ、堂塔、子院などの住所は全て雑司町である。当初から東大寺領内の境内町であり、「五却院」のある北御門町は、東大寺の北限である「北門」のあったところでやはり境内町であった。であるから、「五却院」は東大寺の末寺であり、裏の墓に大仏再興の大勧進・公慶上人の石塔がある。

民家の「雑司町」は東大寺で必要な雑用、マキ燃料、飲料水運び、燈明油、供えもの用の米や花、法会の準備など、経典を読む僧侶のために一切の雑用をこなし、ちょっとした伽藍の修理を行う。そんな人々、つまり「雑仕、雑司」が住む区域であった。江戸時代に100軒ぐらいあったという。時代を通して世襲が多く、旧家も少なくない。

燈明油については、特に油を扱う「油倉村」が今の川上町東橋の森の中にあった。古地図では雑司村の飛び地として
山中に描かれている。

●空海寺と空海伝説
正倉院の裏道には北の雑司町に下る二本の道があったが、今は一本のみ、この道を下りて北御門に出る中間あたり、右に入ると「空海寺」があり、ここの裏地に東大寺僧ための墓がある。東大寺は創建時から華厳の総本山ですから、葬式はやらない。やらないけれど、東大寺僧が遷化すると末寺であるこの真言宗・空海寺に葬られる。しかし、本山の墓地だけではやっていけないので、広い地所を生かし、檀家寺として、棚田嘉十郎の墓碑もある。一般にも墓苑(天平墓苑)が開設、売り出しが始まったところだ。

空海寺は弘法太子が岩屋を掘り、石仏地蔵を安置して開基したとの伝説は伝説であり、作り話である。空海は戒壇院で受戒し、しばらく別当にもなって真言院に居住した。だが、空海が雑司村に住んだとか、草庵があったなどと、東大寺文書にもどの古書にもない。ま、そう硬いことは言わず、今では数少ない静寂な寺に行くのも良いでしょう。観光になるような境内ではありませんが……






Pnorama Box制作委員会


HOMEへ戻る