安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・鹿寄せ
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( 2016年 8月 28日 日曜日)


●鹿寄せに行かない市民
奈良公園、夏の風物詩、朝の鹿寄せが終わった奈良市の住民は、鹿寄せや、鹿の角切りにワザワザ出かけるだろうか。拙子は親に連れて行ってもらったことはない。母は春日講に熱心だったから、角切りには下働きしていたかもしれないが、話題になったことはない。ま、どこへも連れて行ってくれない親だった。

少年の頃は飛び火野にバドミントンやバレーボールのボールを持ってよく遊びに行ったものである。自転車で行く。そんなある日、ラッパの音が聞こえ、音に向かって鹿があちこち、森の中から走り出てきた。鹿寄せだとわかったが、自転車の見張りもあり、鹿寄せを尻目にボール遊びを続けていた。

●鹿寄せの始まり
鹿寄せは今の万葉植物園に石柵で鹿の囲いを作った明治30年後のことで、そう古いことではない。鹿が郊外に出て農作物を食い散らすので、囲いの中に鹿を集めるため、新たに鹿守りという職を設け、彼らの主な仕事は鹿を毎夕、「鹿の収容所」と呼ばれた柵内に鹿を集めることである。その方法としてラッパを吹きつつ鹿を収容所に追い上げる。集まったらイモの餌をやる。戦後は鹿の好物ドングリを与えるようになった。

毎日そう繰り返していると、鹿はラッパの音と餌の関係を覚え、ラッパを吹くと集まるようになる。条件反射である。鹿がよく集まるようになったのと、700頭に増えてきた昭和5年に、柵を拡張して現在の鹿苑が造られ、ここで角切りが行われる。

ラッパ(ピストン、バルブのないトランペット)は軍隊のお古を提供してもらい、鹿守りさんが我流で吹く。それでも鹿は一向に構わないのであって、聞きなれた音が条件反射を呼び起こすらしい。だからたまに紀寺連隊から信号ラッパの兵隊さんが、飛び火野で練習しても、鹿は見向きもしなかったと言われる。拙子が少年の頃ラッパを吹いていたおじさんの写真が、入江泰吉「昭和の奈良大和路」にある。おじさんは背広にネクタイ、中折れ帽、紳士然として、ラッパを上下あべこべに握って吹いておられる。

●今日の鹿寄せ
U-tubeなどで鹿寄せヴィデオを見ると、現在の鹿守りさんはハッピ姿でラッパはホルンを使っているが、フレンチホルンじゃありません。オーケストラで見かけなくなったピストンがない古いナチュラルホルンというタイプ。これでベートーベンの「田園」から牧歌のテーマを吹くと、昔から話に聞いてもいるし、幾多の観光案内文にもあるが、お兄さんはパープーパープーと繰り返すだけ、いいとこ3音です。鹿はそれでも集まってくるが、あれで「田園」からと分かる人がいたらおかしい。キチンと第四楽章から「牧歌」のテーマが吹ける鹿守りさんがいたら、大人気になると思うのだが。






Pnorama Box制作委員会


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