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奈良零れ百話・碑文の巧拙
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( 2016年 8月 21日 日曜日)
●歌碑は日本にしかない
名所、旧跡、神社、仏閣、地方の市町村、どこへ行っても「歌碑」がある。日本人なら見慣れた「歌碑」に違和感を持たないのだが、考えてみれば、俳句や和歌が盛んな日本独特の現象である。詩人の詩碑もあり、観光客を誘致するヒット曲の歌碑がやたらにある。これは諸外国に見られない現象、ゲーテもホイットマンもイエイツもハイネにも大きな墓があっても歌碑がない。なのに、日本と結びつきがあったE.ブライデンは本国イギリスではマイナーでも、彼の詩碑は日本各地に四つもある。 文学者の墓に警句を付したしたものもあるが、欧州で歌碑というものを見ない。もっとも文豪や芸術家の銅像?石像は多く、わが町ベルゲンにもイプセン、ビヨルンソン、ホルベルグ、グリーク他、数十を数えるが、歌碑はゼロ。 とにかく日本人は歌碑好きである。万葉集の歌碑は拙子の地元奈良の観光テーマであり、歌碑めぐりツアーが盛んである。今では、こういった歌碑を建てる願主/発起人の目的は、観光資源であろう。文学的要因や風致など頭にないから目立てば良いとばかり、凝ったデザイン。発想が安易ではないかと思う。 ●会津八一の歌碑と石工のワザ 奈良県下には会津八一自筆の歌碑が19あるという。八一の没後に建碑されたものがいくつかあるかもしれないが、会津八一は意外に神経質な人で、建碑には必ず原寸で墨書し、石工は石碑にそれを貼って、上からなぞって彫り進んだ。 会津八一の自筆歌碑による最初のものは、新薬師寺にある: ち可つきて あふき 美れとも みほとけ の と、変体仮名2字を使って6行に書かれている。 ●しくじった石工・新谷信正 出来栄えは八一の意に沿わず、送られた写真を見て「刻字は拙悪を極め居る如く、写真にて看取し遺憾に存じ候」と友人に書き送っている。 新谷信正は漢字が主で、長慶石碑の漢文碑文を全て刻んだが、唯一の草書碑文はうまくないと、解読を依頼した書家がコメントされた。それが長慶自筆によるものか彫師のウデによるためか、どちらも拙かったと、今にして思う。 ●成功した無名の石工 かすがのに おしてるつきの ほがらかに ●二転三転した不運な移転 それが戦後18年になっても、春日境内に移転できず、よく臍を曲げる道人は申請を撤回すると奈良県庁に申し送った。 その後、時の春日宮司、水谷川忠麿が雪消の沢に建てたいと県に申し入れ、昭和24年に春日大社の所有となった。で、しばらく飛火野雪消の沢の杉の大樹下に置かれていたが、観光客に傷つけられるので、完成したんばかりの有料万葉植物園の中に移したのである。しかし道人は、人気のない植物園の柵内に移されて「春日野に押し照る月」もありものか、少し寂しそうであったという。 |
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