安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・続地獄谷の池
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( 2016年 8月 19日 金曜日)


●池と川の歴史的考察なら、川口善信氏
奈良の池と川の歴史を古地図から調べている人が高畑にいらっしゃる。このテーマでは拙子など足元にも寄らぬ。
その御仁、川口善信さんからもうひと月ぐらいまえにいただき、地獄谷新池について教示を受けた。一部引用:

ハードコラムの「奈良零れ百話・地獄谷の池」2015年7月23日」の地獄谷の新池は、上の溢水口の傍に「新池 紀念碑」があります。それによれば明治13年4月に官有林1町4反余りを借り受け、池を造る計画をしました。明治14年10月に工事を始め、工夫の総計一万五千人とほとんど八年の歳月を要し明治20年5月に完成したのです。明治初年の旱魃対策に山の池を新設したのです。
この事業の発起者11人の中の1人に小生の曾爺さんが名を留めています。川口平蔵です。

碑文の冒頭は「高畑村所轄田圃三十有町余は曽て水利に乏しきにより耕耘に拮据するも充分の効を奏するを得ず」とあります。

川口さんは拙子と高校で一年若いクラスにいたので、先輩を立てておられるが、退職後、足と古地図で調べた川の話は実に面白い。

●「持続する志」
高畑村が主導した難工事サラリと書かれているが、村民がこの山中の難事業を完遂したことに畏敬の念を覚えてやまない。大和盆地に多いため池造設は、特に困難ではない。しかし人里遠く離れた地獄谷の斜面に土堤を築くのは、車道とてなく、建設機械もない時代に8年がかりで、モッコを担いでの人海戦術至だ。関係者の「持続する志」に感嘆する他ない。

拙子がコラムで述べたことは、大筋において間違いはないが、『新池が造成されたのは早くて江戸時代、滝坂の石畳が工事されたころだろう』とか、『春日山、芳山(ほやま)の南側に向う伏流がわき出す泉をせき止め、てわき出し口が他所へ移らないようにした。まいまは拙子の想像ですが、休暇を終えて家に帰ってから再度、新池のなぞをしらべたい。』とまぁ、いい加減だこと。現場にある「祈念碑」に気がつかない程度だから、汗顔である。

●能登川の水の配分
先達・高田十郎の「奈良百話」に「能登川の水の配分」という紀寺の老人からの聞き取りがある。それによると、能登川の水は高畑、紀寺。肘塚(かいのつか)、京終(きょうばて)各村(紙に編入される前)の田にかかる。それで、高畑に百石、紀寺に千石、肘塚に百石、京終に千石あがる。水が不自由になると、下流の京終から「番ふだ」を持ってきて、上下の水分けを申し入れる。紀寺の村内にキデ(堰)67カ所あり、各キデの有り水を七三に分けて、そろぞれ三分を取って七分を下に流す。順々にそうやって、ちょうど良いほどに全体にう行き渡るのである。

もっとも時々モメることはある。年に一度、右四ケ村から30人余りが集まって料理屋で飲むという、手打ちにするらしい。しかし、能登川は高畑村が明治に発起して完成したため池であるにもかかわらず、高畑は田圃少ないためか、紀寺が威張り、高畑は肩身がせまい。時代の移ろいは常に不本意である。






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