●奈良町の成り立ち
県制が敷かれるはるか古代より、奈良と言えば、大和の奈良のことであり今の奈良市を指す。【奈良は社寺の郷から中世に町民の街へと発達し、次第に奈良まちを形成した。この時の街路がほぼ現今の奈良市街に等しい。近代になって、商家/民家の建築的発達はあるが、町並みにさほどの変化は見られない。】というのが奈良の発生と成立に関する定説である。拙子は素人だが、異論はない。
●平城京の条坊制に即した奈良市街
奈良の市街原型はもちろん平城京の条坊制にのっているから、直線街路が交錯する「碁盤の目」のように規則正しく、京都と同じである。原型はそうなのだが、広い道幅が両側から宅地に蚕食され、大路は、荷車一台が通れる狭い道になってしまった。
例えば油留木町から芝辻への細い道は平城京の二条大路だった。長屋王邸正門前を過ぎ、朱雀門前を通る二条大路なのである。拙子が育った鍋屋町は二条大路だったのである。ところが誰が言い出しっぺか、登大路から近鉄奈良駅北側、大宮通りを通り阪奈道路に至る国道369号線を二条大路の名残とする言記がある。マチガイです。
●条坊制による「うなぎの寝床」式宅地割
平城京の条坊制による都市計画とは、南北に条大路を9本、東西に朱雀大路を中心に西へ坊大路を3本、東へ7本の坊大路を通した。正確ではないが1坊は一辺が533メートルの正方形と考えてよい。1坊を16の坪(町)に分割して小路とし、宅地割はこの坪を細分する。平城京では東西行を半折し、南北行を8等分する「2行8門制」が施行された。概算で間口6間半、奥行き26間が1戸の宅地になる。しかも間口の細分化はさらに進み、間口が狭く奥行きが長い「うなぎの寝床」と呼ばれる奈良の家屋原型が出来上がった。
しかし勝手に道路を作ることは許されず、二分して奥の裏地を売るわけにもゆかず、空き地のまま、あるいは畑に利用された。玄関から奥の畑に出入するため、家屋の片側を土間縁と呼ぶ履物のまま裏地に行ける土間があるのはそのためである。間口が細分されていない宅地では、袋小路を設けて奥半分を売却したり、長屋が建てられた。
●餅飯殿の区割
餅飯殿町は六坊大路が三条大路と四条大路に交差するあいだの町名である。春日おん祭りの大宿所であった興福寺遍照院(へんじょういん)を南端にし、光明院町は遍照院の南にあった光明院(消失)にちなんで名付けられた。現在は大宿所が小さくなってビルの間に移されたので、光明院町の北側一部も、もちいどのセンター街に含まれる。
●郷から町へ
郷とは社寺が所有する領内のことである。社寺の力が弱くなり、町場化するものが多く、興福寺領主権が弱まると、税を課され隷属していた郷民が解放されて餅飯殿町として自立するまでになった。織田・豊臣の武家政治が奈良を支配、餅飯殿町は、この武家支配と興福寺により支配力が拮抗するのを幸い、奈良町自治体への動きが盛んになり、支配権争いが興福寺の敗北に終わると、奈良まちは武家支配が確立。郡山城に入った豊臣秀長の直轄地となった。代官に中坊氏が起用され、餅飯殿町の西に隣り合わせの椿井町に代官屋敷を置いた。徳川幕府になると、代官屋敷は大豆山町に移され、奈良奉行に代わるのだが、椿井町の代官屋敷跡は再び餅飯殿町の西側町家に戻され、奥行きを増した。
江戸中期の餅飯殿町には奈良晒しの問屋が5〜6軒あり、墨、米などの問屋街の様相を呈している。このころ40軒足らずの町内だがおそらく奈良で最も裕福な町内であろう。
冗舌が過ぎた。明治・大正の変遷をダラダラ続けるのは止める。