安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・餅飯殿の想い出
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( 2016年 7月 19日 火曜日)


●餅飯殿町
餅飯殿(もちいどの)町は全て餅飯殿商店街で民家のみは一軒もない奈良一の繁華街である。他府県のイトコたちに自慢する商店街であった。戦後間もなくの頃、大阪のいとこのところに泊りがけで遊びに行くと、カーバイドの青白い光が並ぶ夜のヤミ市や、近くの長い天満商店街の賑わう人出に内心驚いた。

それで、いとこが奈良の我が家に来た時は、「足が踏まれるデ、もっのすごう賑やかなトコやねんデ」と幼稚な競争心でいとこらを餅飯殿へ連れて行ったものである。ま、足を踏まれるほど混雑してはいないが、神戸屋のパン屋、度量衡と官報を取り扱う活版印刷の明新社、森田の帽子や、万年筆の万年堂では、拙子が中学生になるお祝いに、父が万年筆を買ってくれた。まだボールぺンがなかった頃である。みつはし運動具店、原洋品店、呉服屋、履物や、靴や、楽器レコードとステレオの南口商会、通り最後の東側には家具/寝具やがあった。餅飯殿を、周囲の人は「もっとの」とつづめて呼んでいた。

●夏祭りのJambalaya
弁財天を祀る祠のような神社が、餅飯殿中ほど西側の路地を入った奥にあり、夏にはここで納涼演芸会が催されていた(現在はOKビルの一階奥に改築移転)。中学生の頃、「ジャンバラヤ」を初めてナマ演奏で見聞きして心が騒いだのはここでの出来事である。洋楽ポップが好きだった拙子はラジオか、レコードでしか聞いたことがないウェスターンを、カウボーイハットにギターを抱え、ハンク・ウイリアムスを真似た男のトリオが歌うのである。会場はみんな立ち見で、背の低い拙子はカーボーイハットぐらいしか見えなかったが、スピーカーの大音響に印象は強烈で忘れられない。

●県内初のアーケード
餅飯殿商店街に初めて、アーケードができたのは、昭和30年、拙子中学3年生の時である。雨の日も傘いらずで買い物ができると大変な評判でした。あの頃が餅飯殿の黄金期でしょうか。

●小売店の受難期
車社会の発達と大駐車場を持つ郊外大型スーパーやショッピングセンターが続々進出してきた90年代後半からは、小売店が大打撃を受け、八百屋さんや酒屋はほとんど全滅し、商店街は寂れてシャッター街に成り果てた。小西町にできたダイエーはよく流行りましたね。その分、顧客を取られた餅飯殿でもシャッターを下ろした店がいくつか現れ、客足はますます遠のいたのである。商店の中には、学園前など、新しい郊外住宅地に支店を開き、存続に知恵を絞られた。しかし商店街の衰退は全国的な現象で、店主のガンバリだけではどうにもならない。後にアーケードをつけた東向き商店街の方が近鉄奈良駅から傘なしで通れるせいか、人通りが絶えなかったのだが。

●復活したもちいどのセンター街
幸い、大和の歴史観光ブームに乗って、奈良まちが観光地になり、餅飯殿はその通過通り当たる。外国人観光客が行き交い、今では見違えるような第2黄金期を迎え、どの店舗も一新、ビル形式のモールもでき、消滅した店舗名もあるが、老舗の店もかなり存続しており、ご同慶であります。







Pnorama Box制作委員会


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