安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・「きくや」の千年蔵
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( 2016年 7月 13日 水曜日)


●近鉄奈良駅北側にあった「きくや」
近鉄奈良駅が地下に潜り、駅ビルが建てられ、前の道路が拡張された時昭和42年頃、毎夜遅くまで杭打ち機の音がガーン、ガーンと煩く鳴り響いておりました。あの頃は雑音条例がなかったのかな。

その時取り壊された駅北側の街並みには、長い間口の「きく屋本店」や格子戸の玄林堂(製墨)があった。我が家から歩いて5分のところなのに、覚えているイメージがおぼろでもどかしい。拙子より一回り年上の増尾正子さんの「奈良の昔話」によると、【奈良駅の道(今の大宮通りの前身)をへだてた北側には、「きくや本店」という大きな酒屋さんがあった。「きくや」という立書の看板の両側に「阿(あ)られ酒」「奈良漬」と彫られた古木の看板を掲げた間口の広い、長い歴史を想わす堂々とした老舗であった。】さすがよく覚えていらっしゃる。

●京都北山へ移築された「きく屋」の酒蔵
この老舗の酒蔵が近鉄奈良駅拡張のため、京都の呉服屋さんに身売りされた。その呉服屋さんが廃業して今の「愛染倉」(あぜくら)という高級レストラン・結婚式場にされたのでしょうか。京都北山、上加茂神社の東、緑の丘を背に大きな「愛染倉」という名の建物が、元奈良駅前にあった「千年蔵」(せんねんぐら)である。
拙子は以前のコラムに書いた奈良市下御門の関邸を改造した、うなぎと酒房の「江戸川・蔵の間」入ったことがなく、京都の愛染倉にも行ったことがないので、現状は知らないが、「愛染倉」のサイトで写真を見ると、傾きのないがっしりと美麗な内部。築300年とはとても思えない入念な造りである。↓



愛染蔵の案内文によると、【本倉Honguraは享保の時代(西暦1700年代)、奈良に建立された酒蔵を昭和42年に移築。倉の梁は松、柱は桧、壁は漆喰で223坪に及ぶ広大な和式建造物です。】と、これだけでは、奈良人は寒々しく思うだろう。

●「きく屋」の千年蔵
建物由来のことなら拙子、些か齧っているのでここに書いておく。
「きく屋」の初代は平安時代中頃に加賀の小坂村から奈良に住みつき、小坂が性になった。何を職業としたか定かではありませんが、二〇代目・小坂治左衛門定利の代に、江戸幕府の御用酒屋となり、孫の定之の時、良材を選び、名工が酒蔵を建てた(享保10年1725頃)。世間で千年はもつと評判になり「千年蔵」と言われ、また鬼瓦に大黒さんの瓦を使っていたので「大黒蔵」とも呼ばれた(松本楢重「奈良物語」)。

●徳川家康と奈良漬
現在、奈良漬「総本家きくや」(藤原町)の案内に「創業慶長十五年」、「慶長15年、興福寺滞在中の徳川家康に奈良漬を献上した」と記されている。拙子はその出典を知らないが、慶長15年(1610)、家康69歳、この年の家康公の行状を見ると、奈良に来たことはない。

家康は元和元年(1615)、大坂夏の陣に出陣。途中奈良に立ち寄って、元部下であった清須見盛時が作った奈良晒しを賞賛、御用商人に指名したことは依水園のコラムで述べた。奈良漬に関しては、『浪華図絵』によると、家康は、大坂夏の陣で「あしひの杜」に陣を取った際、奈良名物として献上された奈良漬の味をいたくお気に召し、江戸に帰ってからも奈良漬が欲しくて献上者・糸屋宗全を江戸に呼び、御用商人にさせたという(小川敏男「漬物と日本人」及び、奈良きたまち「歴史の雫より」)。

●老舗の歴史、奈良漬の歴史、日本歴史の不整合
糸屋宗全は中筋町で開業していた漢方医で今のような白瓜奈良漬の創始者と言われる。この糸屋宗全と造り酒屋の「きくや」の繋がりは、同じ中筋町に居たのだから、宗全が酒粕を貰った先は「きくや」に違いない。公儀御用にて江戸に出向いたのが、糸屋宗全でなくて「きくや」の小坂定利、創業慶長一五年でなくて元和元年なら、各史論スンナリ整合するのだが……、然様な筋合わせはゴマカシ、歴史には禁じ手であるとわかっているが、難しいものですね。

この頃、奈良の造り酒家はこぞって宗全をまねた奈良漬を売り出した。当時公儀御用の酒屋は奈良に数件あり、江戸表に下屋敷を拝領し名字帯刀を許された者もいた。ただ、これら老舗は消滅し「きく屋」だけが今に継承された。「千年蔵」と呼ばれた酒蔵は身売りしたけれど、「総本家きくや」の奈良漬として残ったのである。







Pnorama Box制作委員会


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