安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・山田道安
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( 2016年 7月 11日 月曜日)


●道安の東大寺大仏修理
昨年の5月27日の「奈良の零れ百話」で;

【ところが今度は松永久秀と三好三人衆の合戦だ。−中略− このときの兵火で大仏殿が焼け落ち、大仏さんの頭も融け落ちた。奈良の篤志家が木組みの上に銅板を貼付けた仏頭をつくり、仮の大仏殿を建てて間に合わせたが、台風で吹っ飛び、大仏さんは張り子の頭を露座にさらす醜態が江戸中期に再建されるまで続いた。】

と、書いた。この銅板張り仏頭は、江戸時代に公慶上人と弟子が大仏と大仏殿を再建するときに取り払われ、その醜態が見られなくて幸いだった。

そんなあまり感心しない意味合いから、修理の勧進と制作を担い、資金の大半を寄金した人物を「奈良の篤志家」として当人、山田道安の名を書かなかった。ところが、山田道安が今ではよく知られているとは知りませんでした。山辺郡の山田町が天理市に併合され、市の観光案内文に曰く、「大仏の顔をデザインし修復に貢献した山田道安の足跡を辿るコース」。道安ゆかりの天理市福住地域(福住町・山田町)、道安が城主であった山田岩掛を巡り歩き、「道安と復元氷室を訪ねる路」などの歴史散歩コースが用意されているとは。デザインなどと舌触りがよく、人気が出るよう均した歴史感の説明文でした。山登りを兼ね、暇つぶしの趣味には健康的でよろしい。

●山田道安の画風
山田道安の家系は筒井一族と称されるが、道安の妹が筒井順慶の母であることから、後に筒井一族とも呼ばれるようになっただけのこと。道安は生年不詳、山の尾根伝いの砦/山辺郡岩掛の山田城の主。天正元年(1573)没。子の順清は辰市の役(東九条町にあった辰市城大和最大の合戦、松永久秀vs 筒井順慶、筒井が勝利)で父に先立ち元亀2年(1571)戦死。

山田道安は早く剃髪し、本名順定(or順貞)を道安に改めた。畫や彫刻に優れる。その多くが失われたが、オヤっと驚く斬新な畫が数点、データベースで見ることができる。畫は周文、雪舟に傾倒して独習、宋風の水墨画もある。さらに木彫にも才能があり、興福寺西金堂にあった「梟鐘(フクロウ鐘)を打つ小僧」という小さな木彫が盗まれた際、道安が新しく彫って献納したという。西金堂は江戸時代に焼けたまま、基壇しか残っていない。救出できたのか、焼失したのか、何れにせよ道安の彫刻は現存しない。

ややこしいことに、父子三代にわたって山田道安を名乗り、二代を順清、三代を順智と、大正時代の「画工略伝」に記されているが、マユツバらしい。

●道安の畫

瓜蝉図
画面いっぱいに大きなウリ、熊蝉の透けた羽、前景の葉先が枯れている。かなり退色しているが、描かれた頃はさぞみずみずしく涼しげな一幅であろう。クマ蝉がウリの汁を吸うのだろうか、この方面には無知です。他に「?瓜栗鼠」と題する一幅があり、猛禽のような黒リスが瓜にまたがってかじっている畫がある。



左の一幅は、中国の禅僧で臨済宗の開祖である臨済が、黄檗関の深山裏で取ってきた松の苗を、クワに結あえて帰るところ。山門にこの松を植えたので、後世このエピソードが画題になった、というようなことが賛に記されている。

右の「紙本淡彩 鍾馗図」は道安の傑作、重文である。臨済宗本山・鎌倉円覚寺(えんがくじ)の所有だが、鎌倉国宝館で展示されている。北斎の「鍾馗騎獅図」や大きな絵のぼり「朱書き鍾馗」、拙子の好きな「新篇水滸画伝」のように動的ではないが、マンガ的ショウキ絵が多い昨今、これは古風な正統宗画の良さがある。画紙の傷みが残念。

補註:「瓜蝉図」と「臨済栽松」は大正時代の美術雑誌『美術画報』に掲載された画像を「東京文化財研究所」がデータ化し、一般に公開されている。







Pnorama Box制作委員会


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