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奈良零れ百話・依水園の人物史(4)
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( 2016年 7月 5日 火曜日)
●清須見家と関家で266年
少しおさらいしておきます。 奈良晒しの豪商・清須美道清が、晒し場のあった吉城川の地に、最初に茶室と庭園を造ったのが寛文12年,1673 であった。清須美家の山荘として、三河徳川家康の頃から代々継承されてきたが、明治になって奈良晒しが衰退する。 清澄見家が200余年、維持してきた茶室と庭園を、明治30年頃に繊維問屋の実業家・関藤次郎が買い受け、本格的な大庭園に拡張した。こんにち、清須見家道清の茶庭を「前園」、関藤次郎が造った東の庭を「後園」と呼んでいる。 昭和に入ると、イトヘン繊細産業の景気が悪くなったが、関藤次郎は奈良近代産業を索引する実業家として成功した。次代の信太郎氏は、銀行を経営する奈良市屈指の資産家であり、経済的に困って「依水園」を手放したのではないが、下御門の商自宅を売却、自宅を何度も引越し、落ち着かなかった。晩年は、各社の監査役に退き、茶庭や点茶よりも仏教者として信仰篤かった。東大寺、薬師寺、興福寺の信徒総代を務めたほか、奈良地裁・家裁の調停委員を36年間もつとめた誠実な人格であった。 ●中村準策 1876ー1953 海運・貿易商の中村準策も船成金のひとり、用船契約、船舶の売買、鉄や石炭の相場で相当あくどい事をしていた様子が、同時代の実業家で政治家であった平生欽三郎の日記に所見される。昭和の金融恐慌で、破綻した「旭日生命」(渡辺財閥系を買収するにあたり、中村配下の番頭が一括現金で渡辺家に届けたという。 増えるばかりの利益を何に使ったかというと、大邸宅を買収し、御殿を建て、古書画骨董品につぎ込むのが、成金諸氏に共通した用途である。中村準策は中村家から、昭和14年、第2次世界大戦が始まった年に、依水園を買い取った。やはり神戸の海運相場で財をなした由良氏が一足早く、現吉城園の邸宅を買い取っており、そのことに刺激されたのか、中村氏は隣設する関氏所有の依水園を買い受けたのである。 ●戦後米軍に接収され、あれ荒んだ依水園を補修 準策氏が立派だったと思うことは、占領統治7年間の終わりとともに、荒れた依水園を補修し、蘇らせたことである。拙子の住む町内、隣の町内にも接収され、米将校家族にあてがわれた邸宅があったが、元の家主は返還後に変わり果てた我が家に戻る気にならず、戻っても数年で引っ越して行かれた。準策氏はこれまでの持ち主のような風流人ではなかったが、素晴らしい借景に魅せられたのであろう。惜しいと痛恨されたと思う。ただ、自分の美術コレクションを収納、展示する美術館を此処に建造するために補修したとは思われない。神戸戦災で収集した大半の骨董美術品を失っていたのである。 ●神戸大空襲 美術館は、孫の準祐(じゅんすけ)氏が美術館建設を実現、公益財団法人「寧楽(ねいらく)美術館」として1969年に公開された。とても伝統的でかつモダンな建物である。その建築の経緯や庭園、茶室の有り様は本稿のテーマではないので省きますが、現在中村家四代目・記久子氏が美術館の館長、五代の長男氏が継承することに決まっているそうです。現中村家の方々といい、拙子と同世代、やや上下する由良家三代目の方々は皆様、品が良く、心美しく育っておられる。初代の強引さはさておき、拙子のような軽率者は、育ちの良いお人に歯が立たないのである。 ●「依水園」名称の由来 なぜここで、元長州藩士で政界の大物・杉孫七郎が出てくるのか、いっこうに解せぬ。石崎勝三と交友があったことは拙著「なら町奇豪列伝」で触れたが、関藤次郎とはどういう繋がりがあったのだろう。知りたいものである。 (なお、最後の所有者海運の中村家と、興福寺の中村堯円・雅真の中村家はよく同じ家系と誤解される。同じ苗字だけの全く関係のない家系です。)
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