安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・依水園の人物史(3)
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( 2016年 7月 2日 土曜日)


●関藤次郎
明治30年(1897)ごろから、ここに居住していた関藤次郎が東の山側に向かって庭を大拡張し、清須見の前園に対して後園と呼ばれる。作庭は裏千家十二世又妙斎(そうみょうさい)宗室による、借景を生かした築山式池泉回遊式庭園である。吉城川の水を新しく上流から引き込み、莫大な費用をかけている。施工には千家出入職の京都堀越から、庭師林源兵衛が当造営したものである。

関藤次郎の名は、明治昭和初期の奈良の逸話や、強度話に何度も登場する実業家、しかし政治的野心のない温厚な文化人で、友人と茶席を愉しみ、歌を読む風流人である。氏は大阪の儒者・藤沢南岳の門に学んで漢学を修めている。

拙著2冊の資料調べの際に知りえたことだが、神道を奉じる漢方医・石崎勝三が主宰する寧楽会という和歌の集まりがあり、関藤次郎はこの会のメンバーであった。越智宣哲が孔子廟を造る際に経費を寄付するなど、宗教に関係なく有為の事業に寄付している。氏は点茶を裏千家に学び、茶号を「宗無」と称したが、今回なるほどそういう意味があったのかと分かった。さらに次代の当主、信太郎氏はヴィリヨン神父の教会建設や、ザヴィエル顕栄碑建立の募金にも率先して多額の寄付を拠出している。晩年は依水園に蟄居して仏教三昧であったと言う。

関藤次郎は、元治元年1864、先代藤右衛門の長男に生まれた。どうして財をなしたかというと、関家は代々絹布・麻布を扱う、繊維問屋で市内屈指の豪商である。奈良で問屋というのはモノポリーのような商形態であったらしく、砂糖の「砂糖伝」、藤田祥光は紙問屋の若隠居であった。藤次郎氏は納税額による「制限選挙」の頃は市会議員、市参事会員を勤め、奈良市長に推された時は固辞して、実業家に専念。今村勤三とともに現近鉄の創立に奔走した。郡山紡績を起こし、中村雅真と貯蓄銀行を設立、奈良ガス会社社長、六十八銀行頭取、雅真と共に文字通り奈良の重鎮であった。

●下御門の自邸は洋風建築
茶道と和歌に長じた風流人であり、屋敷は通りに面した商家造りだが、実業家として屋敷に増築した邸宅はまことに美しい大正の洋館である。藤次郎氏が他界した後、この下御門の洋館を、子息で奈良実業界の大立者、関信太郎氏が、呉服卸商の宮島善治氏に譲渡。しかし繊維や呉服は戦後に生活習慣や、開発途上国から輸入製品に押されて倒産する会社が多く、宮島商店は昭和60年に自主廃業となった。

さらに市の道路計画により、南半分が容赦なく削られ、築130年の洋館は朽ち果てるかと思われたが、近鉄観光が補習改造して鰻の「江戸川」と「酒房蔵乃間」として見事に化けてオープン。関さんも宮島さんもご満足の事と思う。かほどの贅沢なレトロ雰囲気で食事ができ、洋館の中は自由に見学できる。お値段もぼったくりではない。

洋館の建築は http://www.nara-np.co.jp/graph/gra020505_house.html
入店レポならhttp://small-life.com/archives/08/04/2105.php 

▽次回は最後のオウナー中村家です








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