本稿では清須見家から明治時代に依水園を買い取った〔関藤次郎〕と、昭和に関氏から譲り受け購入し、寧楽美術館を建て加えた〔中村家〕について、述べるつもりでしたが、その前に、清須見道清が江戸時代に初めて水門町に茶庭を作った頃の景観はどうだったのだろう。元の地主は何さまだろう。これらを少しでも明らかにしておきたい。関さんと中村さんのことは次回(3)に書きますので赦されよ。
●依水園は東大寺の領地だった
疑問はある解説書に、『依水園がもと「魔尼朱院」のあったところ』と書かれていて、それはおかしい。吉城園は興福寺の「魔尼朱院」が払い下げされた跡地に、実業家の正法院寛之氏(在東京)が大正時代に建てた寺院風邸宅と庭である。
だが、吉城川を境に、北側は東大寺領である。江戸時代の吉城川は下の絵地図を見ると、今と少し違い、建物の有り様も正確ではないが、依水園のあるところは水門郷の民家がポツポツある程度、南大門から西は森ではなかった。まだ東大寺の西塔が立っていた頃には、水門に下る吉城川の北に「西南院」、「新禅院」があった。治承4年の大火で大仏殿、真言院を始め堂宇の大半が焼き尽くされ、西南院などこの辺りの院家は再興されることなく廃地となっていた。その跡地に手向山八幡宮の神官や工人、楽人、衆徒、人夫たちが住む水門郷ができ、閑寂なところになったのでる。
西南院跡の発掘調査は何度か行われており、拙子は読んだことはないが、東南院が現在の本坊である規模からして、大きな塔頭だったと思っている。そして、依水園のあたりはちょうど楞伽院(りょうがいん)があったところと言われる。
従って、依水園に西塔の礎石や、西南院の礎石や柱石が使われているのも頷けるだろう。
↑黒線が東大寺と興福寺の境界。黒線の北が東大寺の所領、南が興福寺境内。油留木町、雲居坂、轟橋、西塔跡などの文字が言える。下中央でV字形にクビれているところが水門町の角、赤丸の位置あたりが「三秀亭」のあったところか。幕末の奈良全体を俯瞰する大きな絵地図(加多越奈良道見取絵図)ですが、吉城川から取水した池もなく、建物などあまり正確ではない。
↑明治初期の絵地図。興福寺の子院は悉く上地(政府が没収したあげ地)になり民間に払い下げされた事情から、残っている三蔵院、無量寿院も記されていない。吉城川の川筋は昭和中頃までとほぼ同じ。ヒムロ神社の裏に「ナラサラシ調布バ」と、吉城川の水で打って天日で晒す場所があったことがわかる。手元の「奈良坊目拙解」北野徳俊-訳注によると、「晒屋一字 橋限の東側にある。この晒し場は延宝年間に晒屋の木戸氏が初めてこれを構え、水門瀑と称す。」とあり、その後、清須見道清禅門の山荘として、茶庭を建てた旨が記されている、どうやらサラシ場の傍に茶庭を造るのは自由にできたと考えられる。。
●農家から土地を取得?
江戸時代は依水園の前庭から、南大門、大仏殿の屋根、若草山、春日山が見渡せた。この辺りに木々なく、水門村は東大寺の工人、楽人、民家と農家の集落であり、東大寺に相談するまでもなく、木戸家から吉城側晒し場の権利を得て、山荘を建てたであろう。そうでなくても清須見道清は、奈良晒しの袈裟を東大寺僧侶に収めていて、顔が効く豪商の清須美氏である。本来の地主が東大寺であっても問題なく取得できたであろう。
●自身の作庭
清須見道清が水門村の道路近くに池泉水を掘り、私的な茶庭を自分で構想してつくった。なぜなら絶景の開けっぴろげな空間に築庭を工夫し拵える必要を感じなかったからだと思う。「三秀亭」の名は、宇治黄檗山の木庵禅師が来遊して名付け、今もある銘額と詩を賜った。三秀とは御笠、高円、若草の三山である。「依水園」という改まった名称は、次の園主、関藤次郎の時に命名されたので、次回に譲る。
↑ 三秀亭。左の高い木々が無かった江戸時代は、土野原の上に南大門の上半分が見えたはずだ。