安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・依水園の人物史(1)
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( 2016年 6月 27日 月曜日)


●依水園の創始者【清須美道清】
東大寺南大門、若草山、春日山を間近に望む絶景地に茶庭を作った人物は、清須美道清という奈良晒しの職人、業者あるいは豪商とされる。寛文12年(1673年)、現在の依水園前園に自宅にあった茶室「三秀亭」をここに移し、吉城川の水を引いて別邸を建てたのである。

●奈良晒しを日本一にした脱サムライ
では、清須美道清が奈良晒しの初代かというと、そうではない。奈良晒しの新手法を完成し、奈良の晒し作りを特産品にしたのは、祖父の清須美源四郎である。元の名を清須美右兵衛烝盛時といい、天正10年(1582)、天目山の戦いに徳川家康に従い戦功を立てた。だが戦いに無常を感じたのだろうか、武士を返上して帰途奈良に残り、晒し布製造を業とした。しかし一から始めた晒し作りである。辛苦の末に従来の晒し法を改良して品質を高めることができた。

大阪夏の陣が起こると、三河の家康はいつものように奈良を通って大阪へ行く。家康は奈良の宿で惜しい元の部下に対面、清須見盛時が作った晒布の出来栄えを賞し、毎年三河へ送るよう申しつけた。江戸幕府になってからは、晒布を25駄徳川家への送品であることを示す「絵符」、道中使う葵の紋つき提灯を賜り、しかも宿が無料になる「宿触證文」を与えられた。将軍家御用達になったのである。清須美源四郎は商人として成功したのを見届け、1619年51歳で病死した。

どうして奈良晒しが、南都随一の産業になったのか、原料のアオソは奈良県に産しないのに腑に落ちない。産地の越後や最上地方はもちろん、古くから仲介屋がアオソ繊維の生成品を奈良県下の農村へ珍売り持ち込み、女子の副業として糸作り、織りを作り、仕上げの晒しは奈良市の専門業者が行った。だが、品質、サイズも一定しない。そこへ脱サムライした清須美源四郎が、新手法で上質の晒を一貫生産、零細な農家の副業を駆逐し、将軍御用達になっって販路を拡大したのだから、その豪商ぶりがわかる。

●盛者必衰の理
越後、近江、能登などの生産地が巻き返しに努力しているのに、奈良晒しは業界トップの地位と名声に安穏としていた……とは思いたくないが、奈良晒しの生産は幕末に勢いを失い、明治には顧客であった武士を失った。明治の洋化風潮に細々長らえるものの、戦後は東南アジアの麻製品に押されて窮地、今は特産としてまた僧衣など伝統的な用途に残るのみとなりました。

余談だが拙宅では奈良晒しの台所フキンを使っている。暑くてゴワっとしているが、水をたっぷり吸い取り、何度高温殺菌洗濯しても傷まない。これほどの布巾は世界中どこにもありませんゾ。伝統衣料というニッシェもあり、奈良晒しの技術は県の無形文化財であり、保存会もあるが、なくても本物は必ず残ります。






Pnorama Box制作委員会


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