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奈良零れ百話・俵畑嘉平と孫の嘉一
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( 2016年 6月 27日 月曜日)
●大正、戦前の言論人 俵畑嘉平
明治後期、「奈良新聞」の記者であった俵畑嘉平は、一言でいえば正義の味方であった。 春日の神鹿を迷信、ただの害獣として扱った四条隆平初代県令が2年余りで奈良県庁を去ったとき、7000頭以上いた鹿が、わずか38頭に激減していた。その後、春日大社が鹿苑を引きついだが、成果思わしくなく、明治27年にまず丸尾萬治郎が中心になって「春日神鹿保存会」を結成、鹿の保護活動に奔走した。 「春日神鹿保存会」の結成に奈良新聞の記者・俵畑嘉平が紙上で応援し、参画している。尚、石崎勝三ら有志4人が荷車に野菜を積み込んで分散している収容所(鹿苑)を訪ねて、鹿どもの悲惨な状況に絶句、驚いている文書を、拙著(奈良まち奇豪列伝)に書いた。 ●普選運動の演説で喝采を受ける で、俵畑氏の演説が巧くて評判、演壇の真打ちなのである。奈良新聞(大正12.11.9)によれば、満員の聴衆の前で「一部特権階級に政治を壟断せらるるは不都合である。吾人は太陽が地上の万物を平等に照破する如く、普選断行によって真に民衆の為の政治は施されんとする。」と述べ、満場を沸かしたという。その余勢を同年暮れの県会選挙で奈良市から当選。大正から戦前の奈良の政界きっての論客となった。 これより前、明治の末、奇豪で無所属一匹狼の・吉村長慶も市会議員として、同趣旨の演説を個人演説会で行っていて、人気があった。余勢を駆って明治45年(大正元年)無謀にも衆議院に立候補、八木逸郎医師に完敗するのである。 ●孫・俵畑嘉一クンのこと 拙子らは嘉一クンを「タワラ」と読んでいた。お母さんと花園町の1LKの古い長屋でふたり暮らしの生活。お母さんは市の民生委員をされていた、いかにも肝っ玉の据わった大柄の人で、この人の口から小言や不平を聞いたことがない。 ●人形劇団「あすなろ」 そういう雰囲気が良かったのだろう、集まる仲間の中から後に3組が結婚し、元気に年をとったが、「タワラ」は若くしガンに侵され、同窓の友人らが保険のきかないクスリ治療が受けられるよう、カンパして資金集めをした。日頃からやる気満々本人も、しぶとく頑張ったが、40代で永眠、子供の病死など、幸せな一生とは思えず、無念である。帰省時に病院にお見舞いに伺うと、タワラは慌ててベレーを被ってクスリのため禿げた頭を隠すのであった。オレは構わんけど、見る人がビビるからと言う。 ●早世した共産党党員 一度まだ彼が元気な頃、帰省した時に生協のモルトウイスキーを、これが一番うまいと言って持参、そのまま強引に我が家に泊まって行ったことがある。ウン、確かにトリスやダルマよりうまかった。また別の帰省時に黒塗りの大型車でやってきたので、ヤーさんになったのかと思ったら、共産党議員のお古を秘書であったタワラが譲り受けたとのこと。そして相変わらず底辺の人達の救済に駆けずり回る党員のタワラは、今思うと自分が情けなくなるほど輝かしい。 |
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