安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・辻斬り庄五郎
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( 2016年 6月 21日 火曜日)


●十津川郷士、中井庄五郎
中井庄五郎は十津川野尻郷の出身、京都御所を警備する十津川郷士の一人で、居合抜きの名人で剣豪として知られる。庄五郎の有名な武勇伝というと、土佐藩士の那須盛馬(片岡源馬)と、那須のボディーガードの中井庄五郎が四条大橋で新選組の沖田総司ら3人とばったり遭遇、両方とも呑み屋の帰りで泥酔していたらしい。斬り合いになって、那須は軽症を負ったが、庄五郎は沖田総司の刃に間一髪無事だった。

この事件のとき、庄五郎は20歳。同年の11月、坂本竜馬の敵討ちに新選組と斬り合い、若干21歳で討ち死にした。この「天満屋事件」についての異聞がある。十津川郷の蔦川小学校校長後木房吉氏が、大正7年の夏、文武館にて講演、今でいうワークショップのため来郷滞在中であった高田十郎氏に語った庄五郎の人物像が面白い。

●天満屋事件での庄五郎
奈良学の先駆者高田十郎の随筆『山村記』から抜粋引用する。
>大胆で過激で思慮が単純で、身体が強健で腕自慢、最もよく十津川郷士の特徴を具へた標本として、後木君があげた一人は、野尻の志士・贈正五位中井庄五郎であった。
容貌はすこぶる人と異って、全身にイノシシのやうにマッ黒な毛が生えてゐた。嘗て京の清水の音羽の瀧下で、大股を開いてうつぶしになり、一物をブラゝさせながら、水をのんで居ると、誰も彼も驚いて、あの人はと立ち止まった。
其討ち入りの夜など、全く大元気で朋輩に対して、
「オレがやられるということは、満々ない。諸君は段ばしごの下で待ってゐて、這い下るヤツを片っ端から斬れ、オレが下る時には、声をかけるから、無言で落ちるヤツはすべて敵だ。」
かう約束しておいて、単身二階に飛上る。お面、お胴、などゝ。まるで冗談半分にやって居るらしかったが、敵が逸早くアカリを消したので、働きにくゝなり其のうち声も止み、屍骸さえも分からなくなってしまった。<

●辻斬り庄五郎を怖気させた辻斬り
中井庄五郎は真剣勝負の鍛錬とかで、当時の京で流行した辻斬りによく出ていた。
>或夜のことに、郷屋敷に帰ってきて、いつになくダマってブルゝ震えてゐる。次の夜も同様だ。同僚が不思議がって聞くと、
「イヤ、実に手ごわいヤツだ。しかも毎晩同じ頃に、同じ處へ出てくるのだ。」
と猶考えこんでいる。
三夜目には、今夜こそはと云ふので、色々用意などして出ていく。其夜遅くなってから、アァあぶなかった−ゝ−、と云ひながら、すこぶる疲れた格好で帰ってくる。
「どうだ方片付けたか。」
「イヤどうも実にあぶなかった。大上段に打ち込んでくることゝ見て、ツっと其手に出ると意外にもツキと来た。ビックリさしたゾ。此通り頭のワキに、カスリまで受けた。併しハっとかはして、胴を打ってやったら、見事に切れた。イヤ其気持ちのよさは、また格別だった。アヽ、併しあぶない所だった。」
とグッタリする。<

しても、辻斬りが流行っていたとは、驚いた。京の町で幕府側と倒幕派が争い京都の街が不穏だった。その前は、江戸で辻斬りが流行っていた。狼藉武士だけでなく、よんどころない武士や旗本が覆面して辻斬りに出没するため、辻斬り禁止令が出たほどである。

拙子らが悪童の頃は「東山三十六峰草木も眠る丑三つ時、突如ゥ起こる剣戟の響き、チャンチャンバラバラ砂ぼこりー。」と言いながら剣戟ゴッコしたものである。






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