安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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吉城川の想い出(3)
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( 2016年 6月 18日 土曜日)


●市街地を流れて汚れる吉城川
吉城川は押上町の道路下を通り抜ける。気がつかないが道路の両端に石の低い欄干が残る。京街道で奈良に入った旅人が、市中へ向かう前に喉を潤した威徳井と言う井戸の横にある橋なので、「威徳井橋」と呼称される。

吉城川はここで川久保町の中、石積みで護岸されて家々の裏を通過する。川底は自然の石ころで、雑多なゴミが捨てられ、人には見せない隠れた川となる。下水道がなかった頃の市街地を流れる川はどこでも汚かった。川久保の市街地に入ってドブ川のようになった吉城川は、押小路町にぶつかって北へ、川久保町通りの念声寺の北を斜めに中御門町に出る。

現在は押小路で暗渠に入り、目に見える吉城川はここでおしまい。暗渠を出ると佐保川である。

思い出の吉城川は、念声寺の所で吉城川をまたぐ小さな橋があった。その橋の下にいくつかのお地蔵さんと小さな祠があった。今は暗渠になったので川の上が道になり、お地蔵さんは地上に移転されて、川中地蔵と彫った道標がある。

●北川橋町は川沿いの片側町だった
中御門町に出たところで、大仏池(拙子らは大池と呼んだ)の溢れ水である中御門川が合流する。大仏池とは大仏殿の裏を、大湯屋、二月堂から流れる清流・通称ホタル川を止めてため池にしたものですが、ため池にすると水質が落ちる。とはいえ、大仏殿裏でボール遊びをして腹をすかした拙子らは、大仏池でヒシの実を取って、石で割り、ミリほどの白い身を食べた。その頃はヒシが存在したのだから、今よりはキレイなわけだ。

大仏池の溢れ水は、焼門(やけもん)から中御門町に出るので、「中御門川」と呼ばれ、通りに沿って南側を流れていた。なので、その頃は北川端町までの通りは片側町でした。この川も水質はともかく、川底に茶碗のかけらや雑多なゴミが捨てられていて、あの頃の市民感覚は河川の汚れを気にしなかったようだ。舗装通りは押上、今小路の元京街道や、登大路、三条通りと商店街、バスの循環道路くらいで、ほとんど土路のままだった。


昭和30年ごろの写真。吉城川が佐保川に合流する手前、天平橋の近くから大仏殿、若草山を望む写真。奥に見える橋は、筆者の通った奈良学大付中と奈良女子大正門に向かう永代橋、右の土手は奈良女子大学の敷地である。この道は平坦で自転車がラクである。夏の夕べ、よく自転車で押上を下り、焼門から写真のように川沿いを走り、永代橋を渡って鍋屋町の我が家に帰ってくるのが一つのコースでした。

●吉城川の終点
中御門川と合流した吉城川は、中御門町を西へ、女子大北東角の永代橋を経て女子大裏、天平橋の袂で佐保川に合流し、ここで吉城川の名が消える。

拙子が通った中学校はいまなら女子大寮になっているところ、昼休みに裏塀からこっそり出て永代橋の先にあったお菓子やさんで、パンや牛乳を買ったものです。まあ汚い川でしたが、佐保川の方にはアヒルやカモが飼われていた。また合流地点から多門橋の間で茶碗や湯のみの破片を踏んで水浴びしたこともある。

さて、いつ押上以西の吉城川と中御門川が暗渠になったのか。拙子が1971年3月に当地に移住した時、奈良市の大部分が舗装され、下水道が敷かれていたように思うので、暗渠になったのはその後すぐだと思うのだが。しかし、手元の地図、1979年版の昭文社とワラジ屋の市街図では率川、吉城川ともに全域が地上を流れている。

どちらにしろ、下水道が整ったおかげで、都市生活が快適になり、水質の悪い川なら暗渠の方がましである。汚れすぎた三条池が埋め立てられ宅地に変えられたのも良かったと思う。

懐かしい吉城川の想い出を現実に延命させることは不可能である。それゆえに想い出の吉城川は今も拙子の心象風景に美しく輝いている。 (終わり)






Pnorama Box制作委員会


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