安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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吉城川の想い出(1)
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( 2016年 6月 13日 月曜日)


●源流は水谷川
吉城川の源流は、若草山と御笠山の間の谷を流れる水谷川(みずたにがわ)である。その先は、花山にぶつかるので、特に若草山の西の端から幾つかの支流が流れ込んで深い谷底を這う風情の水谷川となる。

若草山の奥なら「ウグイスの滝」をすぐ思い浮かべるが、この滝の水は北進して佐保川の上流となり、南の水谷川の方へは下りて行かない。今となっては残念だが、両河川とも万葉このかた戦前までの水量は豊かであったったという。

拙子らが少年の頃、春日野プールは米軍に接収されていたので、数人の将校らがプールで興じ、4mの飛び込み台から回転捻りの妙技を見せる選手を、指をくわえて垣根の間から覗き見したものです。

そんな時、拙子らが安全に泳げるような場所はなかった。高校生なら学校プールを持つところもあったが、小学生の拙子ら住む近隣では、水浴びができる最良の場所は水谷川であった。

場所は朱塗りの水谷橋を過ぎてすぐ、水谷神社前に小さな落差があり、そこだけは子供の膝までの深さがあったから、チャブンと浸かれるのである。一人が腹ばいになれる広さしかないが、冷たい水が気持ち良かった。石をめくるとサワガニがいる昼でも暗い原生林の中の涼しい谷川に、チャブンと浸かる……そのためだけに仲間と家から一時間近くかけて歩いていくのである。時には知らない子供が先に来ていることもあったから、近隣では知られた場所だったのかも。

しかし、一番知られた水浴び場所といえば、「白藤の滝」であろう。白藤の滝は今ではたいしたことないが、春日大社が吉城川から境内に引き込んだ清水が放出されるところにあり、だから誰でも知っている場所である。ここには大抵知らない先着の子供がいた。この滝水はその後、吉城川へは戻らず、浮御堂から荒池を出て菩提川になる。

左様に想いでのある川なので、料亭「月日亭」に招ばれる機会があれば歩いて行く。奈良駅から歩いてきましたというと、玄関で仲居さんにビックリされる。

●奈良公園から私有地をを流れる吉城川
水谷川は、水谷神社を過ぎ公会堂(春日野国際フォーラム)の北を通って東大寺南大門前を流れる頃から「吉城川」と名を変える。今はあたり一面が整備され、昔の面影は爪のアカほどもないが、それなりの趣があり美しくなった。よかったと思う。

自然のままの吉城川が残るところといえば、一般の人が立ち入れない部分が今でも素晴らしい。それは東大寺を過ぎて、氷室神社の森の後ろ(北側)から吉城園と依水園の間を流れる部分、約200mである。見えても立ち入れないところである。(参照:奈良零れ百話/氷室神社( 2015 4.12)

吉城園は、東大寺の塔頭があったところで明治に民間に払い下げられ、大正8年に東京在住の実業家・正法院寛之氏が凝った造りの邸宅と庭を造営した。氏は塔頭に住む東大寺家の出身ですが、明治に実業家に転向した。建築家の設計による邸宅でなく、施主が大工らを東京やその他の各地から呼んで建てさせたため、奈良の建築史に長らく不明だったが、近年、屋根裏の梁だか柱に建て主、職人の名、棟上げ年月日など、概要明らかになった。

正法院寛之氏は自邸として建てたのだが、普段は不在のままである。登記上の持ち主がコロコロ変わり、結局神戸の貿易商、株で財を成した由良さんが購入した。戦後は依水園とともに進駐軍に接収されていた折は、子息の小一郎さん一家が離れの茶室(並みの家よりはるかに大きい)にお住まいの時、よく母に連れられ遊びに行った。この広大な庭、当時は半分くらい森のままだったが、吉城川に舞う夏の夕べの蛍といったら、あんな明るい夜の川辺はどこにもなかった。しばらくして坊ちゃん育ちの由良小一郎氏が取引のあった神戸製鋼に広大な屋敷を手放し、会社の迎賓用、社員の保養所に使われていたが、賢明にも県が購入して吉城園の名で公開されるようになったのである。

吉城川が水門町に出るところには鉄柵があり、通行人がが入れない故のホタルの天国でもあった。近隣の子供たちがアミで獲るのは北側の白蛇川(はくだがわ)で、ここのホタルが少なくなった後も由良邸ではホタルが飛び交っていた。

次回の吉城川は、水門町の屋敷の間を流れ、白蛇川と合流して押上町に至るまでの川の想い出です。






Pnorama Box制作委員会


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