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奈良零れ百話・道鏡の書
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( 2016年 6月 7日 火曜日)
●道鏡と呪術
道鏡禅師は弓削の道鏡とも呼ばれるように、河内弓削で生まれたとされる。弓削は奈良時代のその頃、大和川が二つに分かれる三角州の中にあり、難波津に着いた大陸からの訪問者が、飛鳥や奈良の都に向かう道筋にあった。大陸文化を自然に受ける環境に道鏡は生まれたので、仏教に関心をもって成長したと思われる。 若い頃の道鏡は葛城山で修行、ここは修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)が修行した場所で、今でいうと山中でサバイバルのノウハウを学びと体力・精神力を鍛えるのが目的である。その鍛錬の中で、病いを治す加持祈祷、呪術、薬草知識を得た。折々に山を下りて病いを直し、人助けを行い、謝礼をもらって修行を続けたのである。 それがし20歳のころ、葛城山の修験道をめぐって山寺に一泊したことがある。修験道と言っても誰でもラクに通れるよう、安全鎖や板敷きがあり、民宿のような山寺だった。あの頃から既に観光化されていたので、奈良時代の葛城山はもっと野生的な自然があったのかなと想像する。 ●孝謙上皇を平癒した道鏡 仲麻呂派を一掃させ、称徳天皇と改名した孝謙上皇と夫婦気取りの道鏡が、ついには天皇の地位につこうと画策し、日本一の悪人にされた。性豪で謀略家という定説だが、道鏡は義淵に法相宗を学び、玄?、良弁、行基などの高僧と同門である(玄?以外はコラムに前述)。それがしは聖武天皇と光明皇后の娘である孝謙上皇/聖徳天皇の計略に落ちたのではないか、返ってお人好しな坊さんではなかったかと勝手に推量している。書を見ると気取らず、自然体である。
●道鏡の書 当時の公文などは王羲之にならって、格調高い楷書で墨書されているのに反し、道鏡の書は正式に学んだことはなかったのか、税の品書きを記した発掘木簡のような俗書、いわば我流である。よって個性が滲み出る。拙子はこちらの方が、仲麻呂の正書に沿った名筆よりも面白い。また、光明皇后が44歳の時に臨書(書写)した王羲之の「楽穀論」(全文43行)というのがあり、それを見ると上手だけれど、自書「天平十六年十月三日 藤三娘」がいただけない。書写見本がなくともそれなりの書であれば良いのだが。そこへ来ると道鏡の書は手馴れた達筆で正書と同じくらいに読みやすい。下に命令する文書ならならこの方が良い。 日付から763年に書かれた筆跡であるにもかかわらず、現今の人間でも字は読める。実際、自分のメモより判読しやすいのです。思うに現代の活字を今以上に画を減らさないようにしてほしものだ。以下上掲書を活字に直す: 注:文中の根道は造東大寺司判官藤井連根道(ふじいのむらじねみち)をさす。根道に写経させよと天皇から十日に言われたので承知して早く写経するように!と呼び捨ての牒、同日に出された道鏡からの通達命令書である。写経生は連日夜遅くまでの作業になったでしょう。 いつも思うのだが、聖武天皇と光明皇后のカップルはとにかく人使いが極端に荒い。その娘の聖徳天皇も女性だけに苦労もされたが人使いは荒い。言えばすぐできると思っている育ちの人は、威張り散らすバカな上司と違って無邪気なだけに、小市民的感覚の拙子は困るのである。 |
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