安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


-------- ----------------------------------
オスロに来た文学者・小山内薫
------------------------------------------
( 2016年 5月 20日 金曜日)


●イプセンの墓
小山内薫(おさないかおる1881-1928)は自由劇場を興し、築地小劇場を作って大正時代に活躍した近代日本演劇会の重鎮である。それより早く、東大英文科を卒業後に島崎藤村らイプセン会を始めている。したがって、大正2年にオスロに来てイプセンの墓に詣でたことは氏の真摯な行為であった。その時の日記/随筆を後年『北欧旅日記』として発刊、その中の一項『イプセンの墓』は感動的で、少し長くなるが引用したい。

●車中の相客から演劇上の人物を想う
【ストックホルムからクリスチャニアへ来る途中の中で会った二人の人を、私はいまだに忘れることが出来ません。一人は「鴨」のグレゴオル・エルレを思わせるような或鉄鋼工場の持主の息子でした。(中略)この青年がエネルンという大きな湖水の側のクリスティネハアムンと言う所で降りて、私に向かって幾度も幾度も帽子を振理ながら、山の方へ帰って行く姿を見た時には、もしやあの山の上に青年の父はゼルビイのような女と一緒に住んでいるのではあるまいかなどと、そんな事まで思われるのでした。】
同じ客室に乗り合わせたにもう一人は尼さんで、詩集をずっと読んでいて話をかわすことはなかったが、時々この尼さんは席を立って一等室の方へ行く。その隙にD?den Incognito af Andreas Osterkingという詩集の題を書き留め、ポケット辞典で調べるものの、D?denがどうしても見つからない。それでincognito(匿名)という親しみのある、心細いような暗い気持ちを誘う字から:
【一等室の方にもしや雪のように白いショオルをかぶって、人の霊魂のそこまで見通すような目をしたイレエネがいるのではないかと思いました。】

[注釈]クリスチャニアはノルウェー独立前のオスロ。D?den Incognito詩集「匿名の死」著者Andreas Osterling1884-1981は詩人、小説家。ヘルシンキ生まれのスウェーデン人。35歳で最年少のスウェーデン学士院に選ばれ、62年間ノーベル文学賞の選考に携わる。

●国民劇場、銅像のまえで
ストックホルムが案外小さい町であることに驚き、クリスチャニア(オスロ)に来てさらに小さい町なに驚く。そしてなぜストリンドベルグやイプセンのような豪(えら)い人が出たろう。町の大きさから言えば東京などは何人ストリンドベルグやイプセンを出したら足りるだろう、と文化・文明を人口と比較して妙な感慨にふける。現今の中国や韓国がノーベル賞受賞者数で日本との人口比で嘆くのと同じで、遅れてきた者の屈折した向上心であろか。

オスロではイプセンが毎日通ったカフェのあるグランドホテルに泊まる。国会議事堂横にあるもっとも由緒あるホテルで、ノーベル平和賞受賞者は必ずここに泊まり、松明をかざした祝賀の群衆にベランダから手を振るあのホテルである。
このホテルから国民劇場は目と鼻の先、翌朝ホテルから歩き出して見たいと見たいと思っていた国民劇場の前に出た。劇場間に立つビョルンソンとイプセンの銅像について詳細な観察が記されているが、感慨、感想はない。

小山内薫は生きた人間を前にすると、演劇の人物になぞらえて想像をたくましくするが、立像や墓を前にすると、【豪い人の銅像の前に立って色々歴史的な感想に耽る人があるようですが、私はいつも唯ぼんやりして了うだけです。私はなんにも考えずに唯ぼんやりイプセンの足元に立っていました。いつまでもぼんやり立っていまし】と書いている。

これは一般的に死者の記念碑,墓碑を訪れる時の最良の態度、同感である。類想は余計なこと、追悼演説などはごめん被りたいと思っていたらオバマは広島訪問で演説しない方針だという。当然といえよかった。

●イプセン、ビョルンソンの墓へ
国民劇場まえから「汚らしい」タクシーで中心から少し離れたところにあるイプセンの墓へ。国民劇場からは遠いが、中央駅からなら歩いても10分あまり、芝生と樹々が茂るゆったりした墓地V?r Frelsers gravlund(我らが救い主の墓地)がある。さて、墓地に来た小山内薫は小さな鉄門を開けて中に入ったものの広く、芝生が植わった山もあれば白樺mたくさんあり、どこに誰の墓があるのかわからない。そこらじゅうを歩き回っていると通りがかりの若い奥さんが
【「あなたイプセンのお墓を探していらっしゃるんでしょう。」と極めて明快な英語でいう。
「そうです。」
「そんなら、あなた、そっちへいらしては駄目です。そらあすこに丈の高いオベリスクがあるでしょう。あれがイプセン。」
と山の麓の方を指さして、
「それからビョルンソンが直ぐそこ。」
と私の立っている上の方を指差して呉れました。】

礼を言って教えられた方へ行ったがやっぱりわからない。暫くあちこち探し回ったが、今日はもう駄目だ。明日誰かに案内してもらおうと思い、山を降りると、15,6の男の子が二人べンチで遊んでいる。そこで英語が話せるかと聞くと、英語は駄目ですがドイツ語は少し話せるというのでイプセンの墓を聞くと、「あすこです」とやはりさっきの女性が指した方を指す。「じゃあビョルンソンのは。」と聞くと、子供はすぐ目の上の山を指差す。山に駆け上がるとさっきから幾度も通ったのに花と木の葉でわからなかったのでした。下から私の様子をうかがっている。イプセンの墓はあっちかといい加減な方角を指すと、子供達は笑いながら麓を駆けて行って、ある墓の前に立ち、私を呼ぶ。そこはやはりさっきから幾度も見た墓。「これですかイプセンの墓は」と確かめると、「そうですよ」。

●イプセンの墓に衝撃を受ける
【注意してみるとなる程丈の低い鉄柵の正面にHとIとを組み合わした金の紋章が付いている。併し墓にはなんにも字が彫ってありません。磨き上げたラブラドルの石のオベリスクの真中周辺に唯鉄槌の形が極薄く、細い線で彫ってあるだけです。
 鉄槌……
 私はイプセンの一生に面と向ってっ立ったような気がしました。】

鏡のようなオベリスクにポプラアの暗い葉、白樺の明るい葉、明るい幹をも写している。白い雲も青空も、極東から遥々来た黄色い顔の痩せこけた青年の姿を映している。そしてこう続ける。
【私は初めてイプセンの一生に出会ったような気がしました。イプセンのLiteraturも、イプセンの演劇もみんな消えて了いました。
 鉄槌……
私の小さい心は粉々に砕かれました。私の小さな研究はことごとく無意味のものとなりました。(中略、ト書きの一例をあげ)こう行った私の研究が、私を「人」にするのに果してどれだけの力があるのでしょう。私は今何をしているのでしょう。私は何をしに故郷を遠く離れて出て来たのでしょう。
 私は大事なある物を忘れているのではないでしょうか。(中略)
 鏡のようなオベリスクに映る物の影は、どこまでもどこまでも深く遠く私を連れて行きます。
 鉄槌はその海のように深い影の世界で、一きわ重く強くズシンズシンと響きます。私は自分の立っている所が分からなくなりました。
“Brich den Weg mir, Schwerer Hammar, zu des Berges Herzenkammer”(「重き槌よ、われに道を開け、山の心室に到達するまで」)
 イプセンの若い時ドイツ語で書いた「鉱夫」という詩の内にこういう文句があります。イプセンの墓の鉄槌はそれを表したものだそうです。これはホテルに帰ってからペデカア(案内記)で知りました。】

と、調べたガイドブックも正直に書き足している。しかし小山内薫は鉄槌の象徴するところを直感して謙虚に自分を見つめているのが、詩人であり近代演劇のパイオニアである氏の尋常ならざるスゴイ精神である。

拙子なんぞも「オレ何でまた日本と反対側のこんな寒い国にいるんやろ」と思うこと無きにしも非ずだったが、帰っても職がありそうにない無名の青二才であり、当地で食べていける仕事にありつけたのを良しとして永住を決めた。歳かぞえ、生まれ育った土地を懐かしむ心が芽生えたが、自己を見つめるようなシンドイことはできないでいる。

だが、明治、大正に渡欧した文士や画家は既に著名かつ裕福な作家である。船旅の時代には滝廉太郎のように体調を崩し、急遽帰国の船上で亡くなっている。帰って早く渡欧の経験を生かして仕事をしたい想いは、いたたまれないほど強かったであろう。そうであればこそ各地で熱心に見聞すると同時に謙虚に自分を見つめ、自分を再発見する旅ができた。そう思う。

●写真いろいろ


↑イプセンンのオベリスク、黒っぽい磨くと玉虫色に光るラブラドールと産出するカナダの地名で呼ばれる閃長石であるが、東ノルウェーでも多く採れ、このオベリスクと墓石はオスロ南西のLarvikで採石したものでLarvikit, 英語では
Larvikaiteと呼ぶのが正しい。ノルウェーの高級墓石として最も多く使われている。日本へも墓石、ビルの礎石に輸出していた頃があったが、今は知らない。
鏡のように映るのはもちろん日差しの方角による。曇天ならダメ、小山内薫はちょうど良い時に来られた。


↑イプセンの肖像、女性解放をテーマにした社会派作家は謹厳・実直な人物。


↑ビョルンセンの墓、1910年墓が作られた当時の写真。1913年に此の地を訪れた小山内薫の見た墓はこんな様子だったか、尤も現在も樹々が大聞くなったほかは変わりない。棺を埋めた横置きの墓石に花輪が置かれ、Bj?rnstjerne Bj?rnsonと刻まれている。名前を「熊星熊五郎」と訳した人がいて、実にピッタりだと感心したものです。英語に直せばBearstar the son of Bear ですから、ピッタリですよね。墓段に国旗を表す旗が彫刻され、独立運動の指導者を示している。


↑眼光炯々と貫禄の威圧がある。ノルウェー独立の気運を盛り上げ、国民を鼓舞したナショナル浪漫主義の元締めであり、ノルウェー芸術界のボス、国歌の作詞者である。どの写真でも銅像でも反り返った姿勢で、誰がボスか明らか。大変な人気で、葬儀の盛大さでビョルンソンを凌ぐものはいない。






Pnorama Box制作委員会


HOMEへ戻る