安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・野球人-赤堀秀雄
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( 2016年 5月 7日 土曜日)


●早稲田の野球部選手
赤堀秀雄氏は先回のコラム「新聞人-赤堀自助」の子息で父自助氏(昭和19年,1944に79歳で逝去)の後を継いで奈良新聞の社長主筆をであった人。けれども当時の著名なジャーナリストとして俵畑嘉平や奥田信義が躊躇なく挙げられるが、赤堀秀雄?赤堀自助の間違いじゃないの?と芳しくない。

赤堀家の娘、綾子さんの主人といえば年配夫人なら知る人が多い。しかし奈良球界の名士・赤堀秀雄といえば話に聞いている、という御仁が少なくない。秀雄氏は香芝の名家 船木家の出身で畝中(現畝高)から早稲田へ進み、野球選手で鳴らした。

その頃の早大野球部の主将は飛田穂州(とびたすいしゅう)、は日本学生野球協会を設立、学生野球の父と飛ばれた。高校野球の甲子園大回の影の立役者である。この  
飛田氏と秀雄氏は合宿でひとつ釜の飯を食った仲、毎年夏の甲子園に穂州氏が来るたび旧交を温めていた。拙子と同級生の健さんが言うには、父は穂州氏を家に呼んでは大喜びしていたそうです。

● ALL NARA
秀雄氏は市内の野球好きを呼び集め組織して奈良のアマチュア球団「ALL NARAオール・ナラ」を大正時代に作った。畝中野球部や、郡山中野球部と対戦して、互角だったというから、素人の遊び球ではない。近畿のアマチュア球団と交流試合を行っていたが、太平洋戦争が始まって野球どころではなくなり、また公にも野球禁止になったためその頃に自然消滅したようだ。


↑ アマチュア球団「オール・ナラ」春日野球場にて。矢印のユニフォームにジャケツを着ているのが赤堀秀雄氏。万玉楼の絹谷氏もどこかにおられるはず。写真は綾子夫人が北村信昭氏に提供された。

秀雄氏は昭和36年, 1961に父と同じ79歳で没した。すでに「奈良新聞」は廃刊、長年の野球会への功績をたたえて奈良県野球連盟が連盟葬で秀雄氏を送った。

●赤堀綾子さんのこと
綾子さんは女史と古いメディアで紹介される、奈良婦人運動のリーダー。婦人会館の設立に尽力された。昭和30年,1946 県教育委員会が公選になり、立候補者は婦人会をバックに赤堀綾子氏と、官選知事・小野正一夫人。で、綾子氏が勝ったのである。応援に駆け回っていたのが拙子の母というわけ。

綾子さんは今年7回忌、と息子の健さんから聞いてびっくり。100歳近く長寿である。さて小野知事夫人が負けてお気にめさなかったのかな、この選挙後間もなく、任期半年で奈良を去った。







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