安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ話百話・新聞人-赤堀自助
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( 2016年 5月 6日 木曜日)


拙子の小学校時代の同じクラスにいて、その後中・高校とも同じだったが、クラスで机を並べた気友達は赤堀自助の孫であった。久しぶりに孫の健さんに電話して、『おじいちゃん覚えてる』とタズネッたら、おじいちゃんはボクが生まれてすぐになくなったから、記憶はなく写真で見るくらい、という返事。

健さんは自助さんにそっくりで、チョビ髭を生やせば瓜ふたつで、そのことを言うと、親からよくそう言われたと、やっぱりね。

野球人であった父秀雄氏のこと、母の綾子さんが拙子の母と親しくしていたことなど、今日は長く昔話に弾んだ。こういうとき、ネットを通して通話するスカイプを使うので、いくら長話しをしてもほとんどタダ同然、退職ヒマ人に僥倖である。

●「奈良新聞」を自力で創刊した赤堀自助
「新大和」という新聞社にいた赤堀自助は明治31年、30歳で「奈良新聞」を創刊し、社長兼主筆になって腕をふるった。タブロイド版4ページ、4ページ目は広告紙面。薄桃色の紙を使ったので「赤新聞」と言われ(共産党がまだ生まれる前ですから誤解しなかった)、その頃奈良にあった4紙で一番長く続いている。しかも同じ社長/主筆で42年間続いたのだから、新聞人の巨人と言わねばなるまい。

昭和15年に戦時統合で喧嘩の新聞は一社と決またため廃刊、新しく他社と統合して「奈良日日新聞」が刊行、自助さんも経営に加わった。そのためか、今はイベント事業に特化した「奈良日々新聞社」ではあるが、赤堀自助氏を創業者と讃えている。では現在の「奈良新聞」はというと今西丈司が始めた「大和タイムス」昭和21年(1946)が創業前身である。今西の息子さんが拙子の兄と同級で、坊ちゃん然とした長身、中学生なのに上等な腕時計をしていた。兄から元気な消息を聞くと、会いたいと思う。
赤堀自助

●豪放磊落、無欲の人 
豪放磊落、親分肌で欲のない人であった。東京出張の土産は、地方の奈良にはないハイカラなもの。それらの品々はみな人にくれてやったという。そういえば紀寺にあった健さんのお家は、自助社長が住んだ家であるから邸宅と思いきや、プリント屋の拙宅より立派といえ、民家である。入るとまっすぐ石畳の土間、部屋は西(右)側に奥の方へ並んでいて、天窓から明るい光の筋が差し込んでいたのが印象深い。

●コラム「らくがき」
奈良新聞社は上三条(高間町?)に20年、菩提町に20年、池之町に10年、最後は輪転機を備えた油阪町に移っている。菩提町では北村写真館の南隣、前に実業家協会があった建物に手回し輪転機で一枚一枚印刷、原稿は2階8帖間で文机に座って筆で書く。文選工とか版組といった活版印刷が全盛期の頃である。赤堀一家も社内に住んでいた。自助社長は毎日、紙上にコラム「らくがき」を囲みで掲載していた。

これは数行の短いコラムですが、「寸鉄人を刺す」コラムだったと故北村信昭氏が解雇されている。自助氏は怖いもの知らず、憲兵や軍部を非難したこともあったという。ところが一万回以上も連載した短いコラムであるため単行本になっていないのです。健さんがお祖父さんと社長/主筆を継いだお父さんの遺品を奈良日々新聞社へ寄贈されたので、最近、図書館へ通ってマイクロフィルムから写し取ったのが数十点あるそうで、健さんは、日々のコラムですから主張が一貫していないと評された。しかし読んでみたい。

●選挙の神様
的確な選挙予想で選挙の神様と言われた自助翁は憲政会に所属し、これは今村勤三の支援で発刊した経緯もあるが、政治的には護憲派、憲政会の機関紙とみなす人もいる。社の表に「憲政会大和支部」と看板を掲げた。ではあるが、一党一派に属さない論評を掲げて発行部数県下第一に伸ばした。赤堀自助さんは朝から県庁に取材に行くのが日課、県庁職員たちは自助翁があらわれるとピリピリして怖れたという。







Pnorama Box制作委員会


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