安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ話百話・先代良弁杉
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( 2016年 5月 5日 水曜日)


東大寺二月堂の下にあるは〔ろうべんすぎ〕と読むが、拙子のワードでは漢字変換が老弁と出る。とまず不便を漏らしておく。

●先代良弁杉は樹齢600年
東大寺初代別当の良弁僧正のこと、及び良弁杉の伝説は以前のコラム「名僧の肖像−良弁杉の昔話」(2015年9月29日)を参照ください。

昭和30年頃であろうか、当時リコーフレックスという二眼レフを兄弟で共有していた。フィルムはブローニー120(モノクロ6x6,12枚取り)を使う。キヤノンやニコンは成人マニアだけのステータスシンボル。子供の手にできるものではなかった。

この二眼レフを持って、奈良公園を散策しながら慎重に被写体を選ぶのである。DPEだって安くない。一枚一枚が貴重なのだ。ある時、二月堂下の芝生に、頭を丸めた僧衣に下駄の小僧さんがいた。ボクと同じ年頃に見えたので、中学生と思う。その日は早引けの土曜日だったので、小僧さんも学校は休みで、二月堂のあたりを掃除でもしていたのだろうか。

立ち入ったことは何も聞かなかったが、『こんにちは、写真を撮らせてください』というと、意外にはにかみ屋さんで、恥ずかしそうに顔を赤くして良弁杉の下に座ってくれた。二月堂をバックに二眼レフで1枚撮った。なかなか上出来で、キャビネ版に焼いて小僧さんにも一枚進呈しようと二月堂周辺を探したが、出会えなかった。拙子が当地に移住した時この写真を持ってこなかったので、今となっては見つからない。

だが、画像は今でも鮮明に覚えていて、二月堂に来ると同年代のあの小僧さんを想い出す。近くに雑司町の塔頭が多くあるので、あの小僧さんも東大寺家の一人だったのだろうか。同い年なら75歳、長老の年齢である。

●先代良弁杉の威容

先代良弁杉1950年頃 ↑南から  ↑ 二月堂に向かって西から

非常に高く太い根本、枝張りが尋常でない威容である。小僧さんはハニカミながら右写真の根本に座ってくれた。ボクは軽率でガサだったが、純情な僧衣の小僧さんが懐かしい。

●第二室戸台風で倒れる
ワシにさらわれた赤ちゃんの良弁がこの杉の木のテッペンで泣いていた・・という伝承から数えると樹齢600年どころではない。伝説ですから、とやかく言うべきではないけれど、伝説と歴史は捏造と心得るべし。

先代良弁杉は第二室戸台風(昭和36, 1961)で倒れた。しかし倒れる数年前からすでに枯れ始めテッペンのところは枯れ枝になっていた。このときに奈良地方気象台が破壊されるくらいですから、一本杉の巨木が倒れるのは当然にしても、他の建物に当たらず倒れ方がうまい。

先代の枝を挿し木して育ったのが現在の二代目良弁杉である。

● 二代目良弁杉

まぁなんと均整のとれたお行儀の良い二代目であることよ!丹精込めて育てられているのはわかるが、チットモ面白くない。風情なく、二月堂が冴えない。決して懐古趣味で言うのではありません。だからお水取りの松明が見えないと不心得者が出るわけだ。

なお右下に見える祠は、興成神社(こうじょう)。若狭井と関係あるらしい。

劇団「良弁杉」というミュージカル劇団が奈良にあるそうですが拙子は知らない。拙子の親の世代は、浄瑠璃や歌舞伎の演目に良弁のハナシがあり、これと中将姫の演目、お里・沢市の「壷坂霊験記」が奈良では人気があった。母ものや夫婦愛、が高らかに歌われていた(些か幼児的ではあるが)時代である。

←写真/ブロマイド

ワシに攫われたわが子を探して乞食のようになった母が、東大寺でいちばん偉いお坊さんに出世したわが子と良弁杉の下で出会うシーン。

上演:帝国劇場/大正15(1926)年4月

老婆渚 / 〔6代目〕尾上梅幸

良弁大僧正/〔13代目〕守田勘弥






Pnorama Box制作委員会


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