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奈良零れ百話・石舞台
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( 2016年 4月 26日 火曜日)
しばらくオスロにいました。25日帰りの飛行機が翼に霰が氷結したので、離陸前に解凍液を吹き付ける。4月も終わりというのに日中で10度以下。夜は零度に下がる。春よ来い、はーやく来い。
● 石舞台に遠足 蘇我ウマ子の墓と教わった。だから女性の墓と思っていたのだから無邪気なものだ。どこに柵があるでなし、もちろん拝観料なし。わざわざ見にくる観光客はほとんどいない。畑と田んぼの中にひっそりとした大きなむき出し石の古墳だった。石舞台の上に登って、飛んで遊び、大きく高い石室の壁をよじ登る子もいた。あんな時代があったとは、現在の有り様とは隔絶の感がある。 そんな格好な写真が入江泰吉氏の『昭和の奈良大和路』にある。昭和26年5月の石舞台の写真で、上に登っている生徒(中学生?)は画板を抱えて絵を描いている。左側の昭和30年ごろの写真では周囲に柵が出来ているが出入りは自由のようである。著作権があるので転載できません。
↓写真:嘉永元年(1848)の「西国三十三所名所図会」にもむき出しの石舞台が描かれ、「天武天皇を仮葬した場所と伝わる」と書かれている。
そして明治時代に喜田貞吉が『日本書紀』推古天皇34年(626年)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」から、大臣は、蘇我馬子を指していると指摘。被葬者は蘇我馬子で桃原墓が石舞台にあたるとする説を発表し、以後これが有力になった。この徳島出身の東大学者は、奈良に住んだことはなかったが、法隆寺再建論始め、奈良史学に偉大な足跡を遺している。 ● 奈良の考古学は京都から と言う経緯で始まったのが昭和8年と10年に行われた発掘調査である。親分は浜田先生だが、現場に出向いて石舞台の蔓コケを取り除き、陣頭指揮をとったのは末永氏、完璧に盗掘されていたと思いきや、わずかながら埋葬物も発見、周囲の堀も発見、方形墳であると確定した。 この時の発掘調査に古代史/仏教史の網干善教(あぼしよしのり)氏(故人)が学生で参加していた。網干氏が石舞台のある明日香村出身と言うのではなく、氏は柏原考古学研究所長だった末永氏に傾倒して後任教授に、師に負けない業績を達成された。 |
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