安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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日本人的情報伝達
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( 2016年 4月 14日
曜日)


● 海運学者、下条哲司先生の想いで
下条哲司先生は東郷元帥が逝去された頃に幼稚園に入ったので、♪東郷さんは偉い人♪という唱歌で育った。夢は海軍大将になることであったという。通った小学校、中学校にそれぞれ地元出身の海軍大将が揮毫した扁額があった。

で、海に憧れて水産講習所(後の水産大学)に入ったのですが、戦争で遠洋漁業も海軍もダメになってしまった。それで〔海軍〕にシンニュウをつけて〔海運〕を吉田山(京大)で学び一生の仕事にされました。

下條先生は神戸大学の大学院で海運学を講じていたのですが、2年連続して学生がゼロになったのです。この時日本で唯一の海運学教室がなくなった(現在、神戸大学海事科学研究科がある)。先生は統計手法を駆使するので数学ができる。神戸大学から甲南大学に移ってコンピューター学に転じた。つまり、文系と理工系の二股できる教授なのでした。

下條先生の随筆にもあるが、この出色のはなしを、拙子は直接先生からむかし我が家で聞きました。

●洋館の研究所に一人勤務
大学の先生になる前、「海自文化研究所」(元山縣記念財団)に研究員として勤めていた頃、場所は神戸北野町のいま「風見鶏の館」とよばれるが当時はただの古い洋館で、書庫の管理、海運雑誌の翻訳および親会社・新日本汽船の社史資料収集などを、ここの2階に移り住んで一人で勤めていた。

はじめのうちは宮本武蔵が姫路城の天守閣に閉じ込められた時のような、書物だけが与えられた隠遁生活だと自分を慰めていたのですが、週に一度海外専門誌の翻訳を親会社に届けるだけでは一年を越すと耐えられなくなる。ボクは忘れられたのかと心配したという。どうすればこのような生活から脱却するか・・・

●上司に借りた本に俳句を挟む
翻訳を届けに行った時、上司の松本専務にそこにあった分厚い本をお借りして、次の週それを返しに行くとき、本の中に:
    うたた寝の叱り手もなき寒さかな
と書いたメモを挟んでおいた。専務がそのメモを見つけてくれれば……とその日が忘れられないという。結果は大成功!一人で本以外に何もないところに閉じ込めておくのは可哀想だと思われたのか、まもなく船会社の総務課で同じ仕事をするようにとお達しがあった。先生は嬉々として毎朝山を下りて会社に出勤したそうです。

●一を聞いて百を知る信頼感
この一件は下條先生に一つの信頼感を与えた。同じ種類の文化と教養を持つ相手に冗長な情報伝達は必要ない。ほんの一言で数万語に及ぶ情報を伝達できる場合がある、という確信を得た。

嫌気が先にたちサボったり退職したり、本社へ戻せと喧嘩するわ、さらに劣悪労働条件で訴訟になるなど、近頃は俳句で解決と行かないけれど、ゆかしく温かい逸話である。

先のコラムで心前が松永久秀に廟石塔の収奪を思い止まらせた発句についてであった。太田道灌が雨やどりに入った山小屋の少女が山吹の一枝を差し出した逸話では、道灌と少女ともに歌の教養があった:
   七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき
〔実の〕が〔蓑〕を指すことを知る共通の教養があった。

歌や俳句がうまく作れない者でも、相手の心を知る努力と配慮があれば言葉がなくてもスムーズに物事が進むと思う。

*次回は下條哲司の俳句論と先生がベルゲンで詠んだ句について






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