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心前の発句、豊成・中将姫の石塔を救う
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( 2016年 4月 11日 月曜日)
●心前、高林寺に隠棲する
中将姫伝説で知られる奈良市井上町の豊成山高坊高林寺は、知将4年の南都焼き討ちによって焼失した後、融通念佛宗の尼寺に再興された。心前がここに屋敷を構え、隠棲して今の地蔵堂があるところに「快楽庵」を建てて余生を過ごしていた。 さて、松永弾正久秀が大和信貴山に城を築いて大和統一を果たした翌年(永禄2年1695)機内に君臨するべく多聞城の築城を企てた。戦国時代の突貫工事に城の石になるものなら、近くの古墳の石でも寺々の石塔や石仏など、なんでも集めたのである。郡山城の石垣もそうしてできた。 松永久秀の兵卒が高林寺の豊成・中将姫の石塔(廟塔)を持ち去ろうとした時、心前はつぎの連歌発句を久秀に贈ったのである。 曳のこす 花や秋咲く 石の竹 戦国武将の松永久秀は合戦に明け暮れたが、茶会を催し連歌をたしなむ文化人でもあった。心前の句に心を動かされたのか、久秀は豊成・中受姫の石塔を奪うのをおもいとどまったという。 石の竹とはナデシコの一種らしいが、石塔を掛けている。石塔2基を曳き残すようにと心前は風雅を解する久秀に訴えたのである。 なお、現在徳融寺が保管する心前自筆の短冊について、奈良坊目拙解に次のように経緯を示す端書きが付されている。これが原点なので付記しておく。 心前の死後は奈良に於ける歌や茶の文化が衰退し、延宝五年(1677)心前の自筆原稿、連歌会の記録など一部を除いて高林寺の什物や件の石塔2基が同じ融通念仏の寺である近くの鳴川町徳融寺に移され、これ以後徳融寺は豊成山徳融寺と号した。また、うろ覚えで出典が見つからないのだが、「快楽庵」も徳融寺に移転され、明治初期まで觀音堂と寺小屋に利用されていたように思う。 さらに、今文献で知ったのだが、心前が久秀に具申した場面を画家の故佐田芳郎氏が描いた「心前・久秀対面図」が徳融寺にあるという。ならば次回帰省の折には阿波谷俊宏老院にお願いして是非とも拝見し写真を撮らせていただく所存です。 ↑徳融寺毘沙門堂の裏にある右から父・藤原豊成供養塔、四仏塔と |
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