安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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里村紹巴と心前(1)
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( 2016年 4月 8日
曜日)


●紹巴の高弟、心前
連歌会に師・紹巴(じょうは)の高弟として同席した弟子が二人いる。他の門人も勿論いただろうが、よく記録に名のでる高弟連歌師は里村昌叱(しょうしつ)と心前の二人しかいない。

昌叱は紹巴の師である昌休の遺児であり、里村家を継いだ紹巴が後見人となって連歌師に育てた身内である。心前は堺の出身、なんのツテかがあったのか、父、弟と共に奈良の高坊に越してきた。高坊というのは焼ける前の元興寺に係る藤原一族の者が住んだ屋敷の一つで、現在の高林寺(井ノ上町)である。

心前は僧籍に入って紹巴の弟子になり、京都の紹巴宅に住み込みで古典や連歌を教わった。やはり素手で出世を目論んで成功した紹巴に憧れたのかも。とはいえ堺にいた頃から、文化都市であった和泉堺の連歌師に指導を受け、歌も上手だが、人柄が良いので紹巴にたいそう気に入られ、例の明智光秀が張った連歌会「愛宕百韻」に連衆している。紹巴はまた、富士見行に、その前の天橋立への旅にも昌叱と心前を連れて行った。心前は40歳の頃、新居を師の隣に建てたので紹巴が大喜びした発句がある。「一木より二木に茂る軒端哉」

●妻帯しない僧籍歌詠みの絆
連歌師心前は蘆中(よしなか)性だが、奈良高林寺の高坊に居住していたので、「高坊心前」と呼ばれ、さらに「里村心前」が通称になったほどの紹巴お気に入りの高弟だった。それだけに弟子の心前が師より先に逝った時(?天正16年1588)にはかなり落ち込んだという。妻帯しない男の絆は強いものがあるだろう。心前があまり酒をたしなまないのを紹巴がもっと飲め、自然体で行けと不平を言うほどだったが……
心前の辞世:(新仮名/補註:数=年經れば、消=消息、思わまじ) 
   数ふれはあまたの人におくれこし 我が身の消をなにおもはまし

巴右の歌をひらき落涙中々無正体て
   なき跡に数へられんと思ふ身を世に残しつつ消ぬるかうき  
(うき は人生の浮き沈み、はかなさ。)

次に続く紹巴の発句
   うき人は逆さまにゆく年もなし

難しい句である。拙子は、〔浮世に永らえている人は歳をとるばかりで、逆戻りの年は来ない〕と解釈したが……

▲次回は「心前、晩年を奈良で過ごす」と題して、奈良特融寺の石塔を救った心前の句
   曳残(ひきのこ)す 花や秋咲く 石の竹  について
 






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