安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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里村紹巴と奈良の連歌師
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( 2016年 4月 4日
曜日)


●風流人ではなかった紹巴
紹巴はどういう人であったか、どのような性格であったかを示す書きつけがある。

▲ゆとりのある家に生まれて連歌をたしなむというのでもなく、連歌師の家に生をうけたというのでもない。「つくづくと世の有様を見るに連歌師はやすき道とみえて、職人町人も貴人の御座につらなれり、若(し)それをえせずば、百万通の長老の挙状をとりて、関東へくだり、大岩寺にて談義をときならひ世を渡るべしとただ両道に定め上洛し」(『戴恩記』)。▲

出典の『戴恩記』というのは、生前の紹巴が語った言葉を俳人松永貞徳書きうつした書である。晩年の紹巴が知り合いに問わず語りに漏らしたのであろうか、それにしても6歳から寺にあづけられ、ツテも金もなく成人になる紹巴が、連歌師になるのが手っ取り早く容易で、町人でも貴人らと同席できる。もし連歌師になれないのなら、名の通った長老の推薦状をあつめ、文化の低い関東の寺で談議僧にでもなろう。談義僧といのは、今の論客・評論家でしょうか。京のみやこで連歌師になるか、ダメなら、関東へ下って知識の切り売りでもする気でいた。連歌師といえば風流な旅の人を想像するが、まことに世俗的というか、おそろしく現実的な歌人である。

●折ふしに奈良へ帰る
里村紹巴は旅をしない。富士見旅には一度行ったが、これは歌人の資格みたいなもので、連歌師の需要が多い京都周辺から離れることはなかった。一つには勉強のため、上流階級との接触を増やすこともあった。

里村紹巴は「源氏物語解釈」を著している。また源氏物語に触発された平安時代の創作「狭衣」(さごろも、狭衣)の注釈「狭衣下紐」(さごろもしたひも)を著した。これらは数多く書写されて現存するが、奈良では二人の連歌師が、紹巴から「狭衣下紐」の原本を借り受けて書き写している。

●奈良歌壇と里村紹巴
近世初期の奈良には春日神社と興福寺を中心とする歌壇があった。紹巴は 春日社家の中臣祐範と興福寺の僧徒の宗具である。ということは興福寺と春日神社を中心に奈良歌壇があった。生い立ちの項で述べたように、紹巴は春日社家の大東正云(しょううん)から歌の手引きを受けっている。そういう学恩もあり、両親兄弟のいる奈良へ帰るたびに奈良歌壇の人を集めて連歌会を興行している。母の追善のため興福寺龍雲院で千句連歌を興行、兄の死を悼む連歌「懐旧」の興行も行った。その時、紹巴が呼んだ発句;
夏山もかたえ色なき朽ち木哉

途切れなく、奈良歌壇とつながりを生涯続けた紹巴を指標にして、奈良連歌が中興した。春日社の連歌師範頼の神事記録に『春日社司範頼記』がある。この中に連歌の記録も多くあり、79歳で没した紹巴のための追善連歌興行のことが記されている。興福寺僧徒で奈良歌壇の長であった宗具が催し、発句を範頼が詠んだ;
うつもれぬ流れすゞしき苔地哉
日記にはこの歌会が終わるようすを「会席各馳走共、及夜陰大酒也」と、追善歌会の後はご馳走と酒盛り、夜になってドンチャン騒ぎになったという。やはり茶菓子で歌だけ連じていては面白くないわな。よく分かります。(続く)
  






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