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里村紹巴、自己開発と選んだ人生
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( 2016年 3月 25日 金曜日)
●安土桃山時代の文化人、利休と紹巴
連歌師 里村紹巴(じょうは、1525-1602)は奈良の生まれ、興福寺一乗院の小者頭松井昌祐の子である。小者頭(こものがしら)というのは、公家の館にあって、諸太夫、侍、近習(きんじゅう)、小姓、青士(下級侍)の下にある雑役のリーダーにすぎず、一乗院築地塀の内側でいつまでも妻子と一緒に住める身分ではない。
幼児を過ぎた紹巴5-6歳の頃、父興福寺明応院の喝食(かつしき)という食事を知らせる童に預けられたのである。 こういう生い立ちで優秀な子供は、却って将来に自由な世界が開ける。少年紹巴の選んだ道は、歌で身を立て上流社会に連なることにあった。 一乗院ではもちろん連歌が公家のたしなみとして盛んであり、紹巴の父も連歌会に加わっていたらしい。 20歳のとき周桂が没したため、次に連歌師里村昌休に師事し、里村性を名乗る。28歳のとき昌休が43歳で逝き、里村氏を相続して里村紹巴として名をはせる。 昌休の遺児を託され後見役として連歌師里村昌叱(しょうたく)を育てた。 40歳の時、最大のライヴァルであり連歌家に生まれたサラブレッド、連歌歴では先輩の谷宗養が40年に足らない一生を終えて、紹巴の連歌師としての位置が不動のものになった。 運がよかったと言えば語弊があるが、時の上層階級と交わる地位にのし上がったのである。師が亡くなった分だけ独学し、古典を公家ら識者に学んだ。 識者とは、源氏物語を講釈した三条西公条と古今集を教えた近衛稙家、および日本書紀を講義した神職の吉田兼右。学恩はのちに紹巴の著した源氏注釈書『廿巻抄』、『伊勢物語紹巴抄』その他様々な古典注解として実を結んだ。 信長が6万の兵を率い足利義明を伴って上洛、義明は15代将軍になる(1568)。このとき信長が滞在していた東福寺に大勢に混じって紹巴もお祝いに参上した。信長のまえに出た紹巴は2本の扇を捧げ、「二本(日本)手に入る今日の喜び」と言い捨ての符号を読むと、信長は「舞い踊る千代八百万(ちおやおろず)の扇にて」と上の句デ受け紹巴を称賛した。百人は下らないお世辞挨拶の中で、信長公の歓心を引くこの紹巴のトンチは異彩を放つ。 また、秀吉にたいしては前コラムで不仲の逸話を述べたが、褒美の逸話はもちろん多い。その一つ:秀吉が五位少将に任官され、馬場で連歌を催した。秀吉の発旬「冬なれど のどけき空のけしき哉」に「さかえん花の春をまつ比(ころ)」と紹巴が受けたのを秀吉がたいそう褒め、紹巴に百石を与えた(『兼見卿記』)。いわば俸給を貰って秀吉のお抱えになったわけだ。 天下を取った武将は気まぐれで癇癪持ちである。信長は北の連歌会所に火をつけ(足利義昭挙兵に洛外放火)、中にあった紹巴の書物や持ち物を焼き尽くした。 また秀吉の後継者として関白を譲られた豊臣秀次に謀反の嫌疑がかけられ、秀次は28歳で秀吉から自殺を強要された。秀次に近かった紹巴は謀反に連座したとみなされ、知行百石を失い、近江の三井寺に蟄居させられたのである。紹巴72歳の高齢であった。翌年春許されるが、精神的ダメージは大きく、そのまま三井寺の門前に隠居。帰京し中央歌壇に復帰するのは3年後である。平穏に晩年を暮らし慶長7年4月79歳で歿す。 ▽次回は「里村紹巴と奈良連歌」の結びつきについて。 |
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