-------- ----------------------------------
連歌師里村紹巴と秀吉
------------------------------------------
( 2016年 3月 23日 水曜日)
●安土桃山時代の文化人、利休と紹巴
織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代、安土桃山時代というのは関ヶ原までの30年に過ぎないが、南蛮文化が入り、美麗な城、襖絵、障壁画などの文化が華咲いた。また多人数で詠む連歌(れんが)会が盛んになった時でもある。 草履取りから関白になった秀吉は、『文化』的素養こそなかったが、文化芸術愛好家であったのだろう。聚楽第や、金銀をまぶした絵画など、けばけばしいのが好きだった。利休は秀吉の覓めに応じて黄金の茶室を設えはしたが、秀吉にワビ・サビの世界、歌の世界は通じない。 しかも利休、紹巴は、時の権力者に重用されたが、権力に阿(おも)ねず、面と向かって異を申し出る硬骨漢であった。「また少しも媚ぶる心なし」と古書にある。それだから利休は切腹させられ、その弟子、茶人で連歌師の里村紹巴(じょうは)は蟄居させられたのでした。 ●光秀の謀反を知っていた紹巴 はじめにこのような光秀謀反の連歌を例に出したのは、連歌がいかに複雑でわかりにくいものかを示すために他ならない。連歌の座には式目規則があり、大名は例外だが、この座を仕切る連歌師は歌が上手だけでは務まらない。学識と指導力を持つ連歌師でなければならなかった。安土桃山時代の里村紹巴とは連歌会を催す最高の権威、でなくてもその一人であった。 ●秀吉を相手にすると… 秀吉よろこんで「それみよ」と勝ち誇り、紹巴もしぶしぶ筆をとって一句したためたという。 また或るときに秀吉が : |
|