安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・高取町の『土佐』
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( 2016年 3月 16日
水曜日)


前回(3月14日)の続きです。

●高取城の城下町に「土佐街道」?
土佐街道といえば、江戸時代の徳島と高知を結ぶ街道がほぼ現在の国道55号線でもあり、まず四国を思い浮かぶのではないか。奈良県高取町になぜまた土佐街道なのか、拙子が少年の頃には「下土佐」と「上土佐」と呼び、単に土佐町とも呼ばれていた。今もその地名が使われているが、土佐街道と命名したのは、町の観光政策でしょう。城下町らしい商家や古風な家の佇まいが残る子島寺?から植村氏の菩提寺である宗泉寺(そうせんじ)?まで、道の両側に石畳を敷いて整備し、「土佐街道」と命名した。町の観光案内所で確かめたわけではないのでエエ加減なこと言うようですが、この道が四国土佐に通じるワケないす。

●国名が地名になった土地
国名集落と言われる土地は全国各地にあるが、高取町には薩摩、吉備という国名集落もあり、それぞれ由来がある。
高取町の土佐のばあいは、高取城の石垣を築くために土佐の高知から来た石工の集団が住んだ地区である、と小さい頃に聞いていた。姉は今でもそう言い張って聞かない。コレ間違い。

源平の海戦場、屋島壇ノ浦に臨む「庵治石」(キメの細かい上質花コウ岩)の産地・庵治町と牟礼町の石工集団、また穴太衆(あのうしゅう)という石垣職人は近江の寺院や安土城、彦根城などの石垣を構築し、室町から江戸時代にかけて全国的に活躍していた。すると、高取城の延々と続く本来の石積みを指揮監督したのは穴太衆の者か、可能性はある。だとしても彼らは土佐ではなく讃岐だ。

●飛鳥、奈良の都造りに駆り出された民
そもそも古代王権は、ピラミッド、万里の長城を持ち出すまでもなく古墳、城郭、寺院、宮殿の建設に、地方から
民衆を使役して完成させた。大和王権も例外ではない。食事と寝場所だけで働かせ、給料は出さない。日本歴史上、租(年貢)庸(労役)調(産物)を定めた律令制ほど人民を虐げるシステムはなかった。東大寺建立に使役された都合何十万民の苦難を想えば、発願した聖武天皇をどうして崇められようか。大仏造立を、〔聖武天皇の独断エゴ、お道楽で帝(みかど)により発願された〕と2015?5?9のコラムに書いた。

●高取町土佐の由来
無事使役期間を終えても帰郷できず、自然に同じ国から来た者が集まって住むようになった。土佐の使役人が高取町に住み着き、その場所をせめて故郷の名を残そうと土佐と自称した。との趣旨が街道の案内板「土佐町由来」に記されている。接子思うに、地元民が彼らを土佐と呼びならわしたかもしれない。あるいは未婚の若者なら、故郷土佐より華やかな都の文化があり、農業にも適しているので積極的に居着いたのではないか。いずれにしろ高取城が造られるはるか以前のことだった。これが高取街道ではなく、土佐街道と名付けた所以だろう。

なお、高取町 町おこしプロジェクト制作のヴィデオ、高取町の歌がYouTubeにあり。それがしの趣向ではないが案内しておく。https://www.youtube.com/watch?v=ACUhWK4F2Qs






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