安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


-------- ----------------------------------
母が育った環境(地図と画像1)
------------------------------------------
( 2016年 3月 14日
月曜日)


●周辺概観

赤丸中央、『尼が谷』が母の育った多間家所在地、ド田舎だったが今は地名が清水谷に編入され、植樹されている。
『松山』は分家農家で屋敷は建て替えられたが今もあり、地名にもなっている。おとなしい牛がいた。
『越智城跡』は、城というより陣屋があったところ、尼が谷から大人の足で歩いて1時間ぐらい。

●越智城跡

高取町西南の隅にある『越智城跡』。城というより陣屋に近い館造りがあった。越智氏は常態的に筒井氏と大和の覇権を争う。しかし織田信長が大和は郡山城を一城と定めたため、越智氏は筒井順慶の家来になった。越智秀頼がお家騒動によって暗殺され、天正11(1158)年、越智氏は滅亡した。この辺りには今も越智苗字が多い。

●高取城
南朝方であった越智氏が居住したのは、平地に面した上記の越智城であるが、南に連なる貝吹山の山頂に越智八郎が築いた「貝吹山城」を本城としていた。高取城はその支城ですから、山の砦に過ぎません。南朝の武将として高いところに山城を築くのが必要であるのはもちろんだが、八郎殿のホンネはお山の大将が好きだったからでしょう。だから普通は一方を平地に開いた越智の館に住んでいた。

高取城の場合は秀吉が天下を取ると筒井氏に代えて息子の秀長を郡山城に配置、秀長は本田氏に高取1万5千石を与えて配下にした。高取城の城主になった本田氏は築城が趣味である。軍師を招んで石塁を築き天守閣を上げ、近代的美麗な城郭を築き上げたのでした。その荘厳美麗な山城の再現CG(奈良産業大学制作)が観光案内所「夢想館」で上映されている。

とはいえ、電気も車もない時代である。山中遠い不便なところで不自由な生活を続けられないのは明らか。普段は殿様、城代家老、与力も平地の街道筋に住んで、土佐と呼ばれる城下町が形作られた。下屋敷あと、城代家老屋敷(現在 植村氏後裔の住居)の長屋門がある。

本田氏二代目は秀吉没後に徳川方に与して高取藩2万5千石の初代藩主になったのであるが、三代目は嫡子ができる前に早死にし、これで本田藩は断絶。でもこういう制度がなければ世襲の支配者ばかりになって社会は閉塞、歴史が澱むわけですから、昔の嫡男制度にはプラス面が大きい。今日の王室、皇室のあり方は、男女にかかわらず長子がよろしい。昔のコラムに繰り返し書いた10年前からの持論である。

没した本田政武に代わって旗本の植村家政が高取城大名に赴任し、明治最後の植村家壺まで14代続いた。高取の人々は植村の殿さんに年貢を納め、庇護される時代が長かったので、明治生まれの地元衆が植村氏を誇りにした。

戦国時代には高取城を舞台に幾つかの戦いがあったが、天険の高取城は落ちたことがない。石田三成が急襲した時は攻めあぐね退却、天誅組が5倍の兵力で押し寄せた時は、平地の城代家老が近くの台地「鳥が峰」に陣取って大砲4門で迎え撃った。戦いは2時間で天誅組が敗走したというから、高取城に詰めた兵は退屈しただろう。

↑ 高取城の石垣。石は大阪城のようなデカイものはなく、あたりからかき集めた石をそのまま使っている。郡山城のように、敷石、庭石、畑の整地で掘り起こした石から墓石まで、なんでもありです。加工したのは隅石の算木積ぐらいか。

高取山、標高584mのてっぺんに築かれた山城。山麓平地からの高さは350m、なんだ小山かというなかれ、後ろは吉野の山塊を控え、敵が来れるのは北面の谷道しかない、充分に天下の険なのである。(次回に続く)






Pnorama Box制作委員会


HOMEへ戻る