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母が育った環境(3)
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( 2016年 3月 12日 土曜日)
●月とスッポンの二兄弟
尼が谷、多間家に明治生まれの4人の子がいた。二人は男で、前回書いた放蕩息子が長男なのです。当時、吉野大淀町長であった伯父さん(母の父の弟)には子供がいなかったので、末っ子の次男を養子として入籍した。 放蕩長男と誠実次男は同じ兄弟でも品格、能力を比べると月とスッポン、雲泥の差があった。養子に行った次男は2月2日のコラム「建築家岩崎さんの想い出」で触れたように、学徒出陣で戦死したのだが、次男のことは激賞の言葉で満ち溢れていて、学校では首席、親切でみんなから好かれていたという。 拙子の姉が語るには、この次男のYさんを覚えていて、背が高く、見るからに賢そうでハンサムなお兄ちゃんだったと懐かしむ。チンチクリンな他の兄弟姉妹と見た目から違っていたのは、おばあちゃんの母方系統だという。拙子はおじいちゃん(母の父)しか知らないが、このおじいちゃんは偏屈で親しさのない人でしたが、おばあちゃんは子煩悩で、拙子の姉がよく遊んでもらっていたと聞く。姉4歳のある夏、その優しいおばあちゃんが50歳まえでなくなった。良き系統は薄命でした。 ●凋落する本家、過去帳まで失う 後で知った拙子の宗教嫌いの母は、仏壇などどうでも良いが、中に過去帳が入っていたのに!と、こればかりは弟を泣いて叱ったそうです。 おそらく南北朝の高取越智氏から、藩主は代わっても高取城の下っ端に連なっていたわが家系を示す唯一の記録が失われ、500年の家の歴史が消滅したのである。菩提寺は今もある。しかし親戚の新しい墓が少しあるだけで家系を示すものは何らなかった。残念だが、代々の家が潰れる時は、たいていバカバカしいキッカケから雪ダルマのように知らぬ間に大きくなり、止めようもなく落ちてゆくものらしい。 ●残った不動産と遺品の行くへ このお祖父さんが、歳老いると、炊事や家事を住み込みのおばさんがいた。しかしおばさんの寝泊まりは土間の農機具/道具部屋で起居し、差別が歴然としていた。そしてこのおばさんが、家のあちこちにあった壺や塗りなど骨董的品物を少しずつ持ち出していたのである。博物館モノと言われる上物があったそうだ。 おじいちゃんの晩年、70歳代は奈良市の狭い我が家で寝たきりなっていたが、市内の病院で息を引き取った。死後は、車で15分のところにいる大淀町長だった叔父さんが残った本家の山林と畑、田んぼを自分名義に変更し、尼が谷の家の跡地に植林し、土蔵にあった武家の宝物・什器や例の鉄砲なども全部持ち帰り、家財道具を処分して死後の整理を終えた。 ●諸行無常の響きあり |
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