安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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母が育った環境(2)
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( 2016年 3月 10日
木曜日)


●お里沢一ではないが・・
晩年、全盲になった母が、育った壺阪霊験記・お里沢市の壺阪寺や「尼が谷」のもう誰もいなくなった空き家を懐かしんで訪れるとき、尼が谷の村の人びとが「ヒメさんが来た」と母をおんぶして辺りを、行きたいところに連れて行ってくれるのであった。母の談によると、ある子が家の柿を盗み食いしたとかで、父が棒でその子を叩こうとするのを、少女だった母が前に立ちはだかって庇い、「柿のひとつで…」とすごい剣幕で父を睨み返したそうだ。それであの子は一生私に恩返しのつもりでいるというのが母の弁だった。お里沢市ではないが、情深い噺である。

●親の身上を潰した放蕩息子
かつては、戦後の農地・山林改革の後も、家から見える限りの山々、斜面の田んぼや畑をことごとく所有していたとのことだったが、母の弟である放蕩息子が印鑑を持って大阪に家出、親の知らぬ間に持ち山を次々売ってしまった。楽器屋、写真屋など何をやっても成功しない人で、妾を囲い、親の身上(しんしょう)を潰したのである。

この放蕩息子は長男であり、いずれ家督を相続する身なので資産を浪費したことに親兄弟は諦念して、互いの中は悪くなかった。そのあとも創価学会に入れ込んで、すっからかんになり、早く中風で他界した。けれど我ら子供にはバイオリンで ♪アハノンキダネ〜♪ とノンキ節を弾き歌いする愉快なおじさんでした。

●学歴詐称?
母は壺阪駅近くの尋常小学校へ弟と妹と一緒に雨の日も風の日も片道1時間を歩いて通ったそうです。本人は御所の高等女学校を卒業したというが、ウソもつく人(年齢を三つサバ読んで一生通したことを、死亡に際し戸籍謄本を取り寄せて初めて家族が知る)ですから眉唾だ。本当なら当時としてはあのド田舎から県に3校しかない女性の高等教育を受けたわけで、まさかそれはない。おそらく母のミエであろう。

しかしながら漢詩が読め、詩吟と日本舞踊の免許を持つお師匠さん、折々に和歌が自然に口をつく母でしたから、拙子の兄弟姉妹の中でも母が御所(五条)の旧高等女学校にいた件では真偽が分かれる。

一方、父は結婚当初、文筆家を目指して同人誌に入っていた。字が上手とおだてられガリバン切りをやっているうちにガリバンが本職となり、印刷業を始めたという。明治の義務教育.尋常小学校だけ終えた父である。原稿の崩した漢字が読めない時は母に訊ねていました。

●景観が一変した時代の流れ
尼が谷の家から、今ではすっかり住宅地になった清水谷の集落が南下方のくびれて見えないところにあったから、尼が谷はホトトギスの鋭い鳴き声が大気を割く隔絶された別天地であった。

今、新しい4車線の芦原トンネル北口に入る手前から後方の中腹を望むと、「尼が谷」の家があった場所が見えると教わり、数年前、60年ぶりだろうか、アァ見てしまった。別天地どころか跡地に植樹され、開けた無味乾燥な森の続きでした。






Pnorama Box制作委員会


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