断片的に母の里に触れたコラムは幾つかあるが、まとめて綴る。
●高市郡高取町尼が谷はド田舎
拙子の母方は奈良県高市郡高取町尼が谷(現在清水谷に編入)に住む農家であった。奈良県の中心部にありながら、小さいころはバスさえ通じず、近鉄吉野線の「壺阪山駅」から山の小道を登って一里の道を標高300メートルの芦原峠まで歩いて行くド田舎である。
母方の家がこの辺りに住むようになったのは、南北朝時代に高市郡の国人であった大和越智氏の頃かららしく、「うちは越智や」という母の言葉をよく耳にし、拙子が小さい時、母の里に来ると「オチの殿さん」とも言っていたんで、越智家の末裔とつきあいがあったのかもしれない。
●高取城 植村氏の家臣
しかしより確かなことは、寛永18年(1641)徳川幕府より高取城二万五千石の城主に封ぜられた植村家の家臣として、代々仕えていた由である。苗字を多間(だま)という。明治に植村氏は華族に列して子爵になったが、多間家は家臣のまま幕末前から農業で生業を立て、いわゆる「豪士」であった。家の造りは、農家といえ前面は高い石垣、後ろは断崖に接し、防備の構えである。敷地の中の南隅に小作人の住む戸口が井戸の周りに並んでいた。母屋には裏の崖に沿って山から清水を竹筒で炊事場の水槽に引いてありいつも満杯、余分な水は捨て水と一緒に外側の鯉がいた水溜まりに入ってから溝へ出て行くという、よくできた仕掛けある。
●座敷牢
いつかこの棟の角にあった屋根裏への階段を上ってギョットした。前面に太い縦格子がある三畳ばかりの畳の部屋、映画で見るような座敷牢があった。なぜ座敷牢があるのか、恐ろしくて誰にも言わず誰にも聞かなかったが、不運に生まれた幼児を閉じ込め、人目につかせない風習は戦前まであったから、そのための座敷牢なのだろうと成人になってから一人合点している。
土蔵には年に数回、また急用で城に出仕するためのホイ籠や槍、刀、大石内蔵助がかぶっていたような黒塗りの陣笠などがあり、座敷の鴨居にカタンと撃鉄が落ちる火縄銃が鹿の角に懸けてあった。この鉄砲は狐やキジ打ちにおじいちゃんが使っていた。
●「ダマの殿さん」
そのうち旧道169号線にバスの回数が増え、一番高い芦原峠のバスストップで降りると尼が谷。なんでも刀匠天国(あまくに)という刀鍛冶が住んでいたという伝承が地名の由来との説がある。母が生まれた農家は斜面の上にあり、もう一軒が下の谷の北奥に見えたが、あとは小作人から独立した農民の小屋が見えない峠側に5、6軒あっただけである。ここの人たちは、多間家を「ダマの殿さん」と呼んでいたが、身分が上だと見ると誰でも「殿さん」呼ばわりする当時はまだ封建意識が抜けない地方であった。