安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・盗まれた邪鬼
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( 2016年 3月 5日
土曜日)


●東大寺三月堂、四天王像
東大寺の四天王像といえば、戒壇院の塑像が芸術性、完成度、親しみやすい小柄の等身大でもあり、奈良時代を代表する第一の四天王像である。

ところが三月堂の須弥壇4隅を護る四天王像は国宝といえ、脇仏のまた脇仏みたいな感じで、内陣正面左右の二躰(増長天、持国天)はまだしも拝観できるが、後方の北西と北東隅に立つ二躰(多聞天、広目天)は遠くてよく見えない。須弥壇の側廊が立ち入り禁止になっているためである。だから、多聞天が左手のひらに奉じていた宝塔がなく、広目天は筆が失われているなんてことには気がつかない。

他にも負の要因として ▲守護陣にしては表情もポーズもおとなしく印象が薄い。▲3メートルを超える脱乾乾漆造りとあれば1000年を経て体型が歪んできた。多聞天はかなり前かがみに曲った姿で、右手に持つホコ(三叉戟)を杖にして立っているかのようです。

国宝を貶めるブツクサは慎みたいが、三月堂に現在置かれている諸像のうち拙子は、梵天・帝釈天とこの四天王が好きではない。

●盗まれた多聞天の邪鬼
三月堂多聞天が踏みつける複製された邪鬼の頭部。鎧の彩色は今も鮮やか。
写真左は佐保山堯海師、右はhttp://blog.goo.ne.jpより

四天王像が踏みつける邪鬼は、どの寺の四天王の足下邪鬼もそうだが、越中ふんどし一丁で苦悶する表情が実に愉快で可愛くさえある。仏師の腕の見せ所がこれら邪鬼に表現されている。

前書きが長くなりました。さて、本題。明治の頃に寺社から盗まれた仏像仏具は東大寺でも少なくなかった。三月堂の多聞天が踏みつけていた邪鬼の頭がいつのまにかもぎ取られ盗まれていた。無くなった頭は明治の終わりごろに乾漆仏像修復の権威であった仏師・細谷而楽氏が復元され、現在見るのがその復元である。

そして昭和15年、ベルリンで日本政府が日本文化展をも開催した時、東大寺も寺宝を出品したところ、あの盗まれた邪鬼の頭が、ドイツの古美術商が持っていることが判った。東大寺で買い戻さないかドイツ人美術商からフッカケられたそうです。でも、ちゃんと復元してあるし、当時の日本は海外流出美術品を買い戻すような金持ちではなかったので、話はご破算になったという。第二次世界大戦でドイツの都市は廃墟になった。あの邪鬼の頭は瓦礫の下で潰れたのだろうか。

(この項「盗まれた邪鬼」は東大寺史の篤学 堀池春峰氏が新聞記者の質問に答えて話し逸話の一つを軸にしました)

補註・仏師・細谷而楽(ほそやじらく)は群馬前橋の人、高村光雲に師事し奈良へ移って仏像古美術の修復に携わる。水門町にアトリエを持つ。新薬師寺のバサラや中宮寺のミロクを完璧に乾漆模写した。法隆寺吉祥天像に関するエピソードは高田十郎氏の著述にもある。拙著『奈良まち 奇豪列伝』に「ヴィリオン神父のそっくりな胸像が発見できなかった」と書いたが、この細谷而楽氏があのヴィリヨン胸像の作者であった。






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