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奈良零れ百話・東大寺梵鐘音波の威力
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( 2016年 2月 15日 月曜日)
●支那事変と東大寺
昭和12年(1937)に支那事変が勃発した。今日ではシナが差別用語という拙子には理解しがたい理由のため「日中戦争」と呼び、あちらでは「抗日戦争」と呼ぶ。 この戦争で奈良県内出身者からも戦死者が出るようになり、当初は木辻の尼寺・誕生寺に遺骨を埋めていたが、小さな尼寺ですから収容しきれなくなったため、東大寺で祀っていただけないかという話になり、鐘楼の東隣にある念仏堂に祀ることになった。 東大寺はご存知の通り、今でいう最高学府で葬式はやらないし、境内には墓地もない。でも英霊ですから納骨を受けいれたと思われる。東大寺は華厳であり八宗兼学ですから、いろいろな宗派の遺族が受け入れやすかったことも与った。それで英霊を念仏堂(地蔵堂)に収められることになった。 その遺骨箱が100箱ぐらいあり、上からの指示で、最初の一週間、暑い夏だったので蚊帳をつって二人の寺僧が泊まり込み、見守った。その最初の翌日の朝、一列に並べておいた遺骨箱が波打ったように歪んでいたのである。気色悪いなアと言いなが寺僧が並べ直したのであるが、翌朝もその次の朝も一列まっすぐに並べた遺骨箱が波打ったように動くのである。 当時は毎日定時にこの天平の鐘をつき、一般人でも鐘つき料を払って一突きできた。今は特別な日だけで英霊の箱は動かず、本尊「地蔵菩薩」の背後に並べられている。開帳の日でも見えないと思う。 ●原因は天平の釣り鐘 東大寺の梵鐘は国宝である。何度も修復されているといえ、26トン以上ある大鐘は天平の鋳造、大仏が鋳造されたのと同時にできた。その後大仏は幾多の試練を受けて大幅な修理、頭部の付け替えが行われていて、それに比べると梵鐘はマイナーな修理で済んでいる。藤原時代の1000年代、地震で2度も釣り部が切れてドシンと落ちた時も釣り部以外に損傷がなかったというから、驚くべき天平の鋳造技術である。 |
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