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奈良零れ百話・本居宣長と吉野水分神社
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( 2016年 2月 11日 木曜日)
吉野水分神社には「本居宣長記念館」があるのでご存知の方は読み飛ばしてください。
●物のあはれを見据えた本居宣長 そうと知れば、宣長自身が大和吉野山の水分神社、俗に子守明神の申し子と信じて敬っていたことは奇異ではなく、赤心だったことが理解できる。 40歳の頃から「毎朝拝神式」という式次第を自ら定めて、神名や神社名を20上げて祝詞を述べるのであった。柏手(かしわで)打って必勝合格を祈念するのとはわけが違う。吉野水分のところでは、>吉野山に座坐(イマ)ス水分(ミクマリ)ノ大神ノ大前(オホマヘ)を慎み敬(ゐやまひ)恐(カシコ)み恐みも遙に拝み奉る< と遥拝するのである。 ●菅笠日記(すがかさにっき) ??さらに登ると蔵王堂から十八町の場所に子守の神があります。 思い出るそのかみ垣にたむけして 麻よりしげくちるなみだかな 涙がとまらず、袖をしぼっても間に合いません。13 歳の時はまだ若くて強くは認識しませんでしたが、今はなんとか一人前になり、物の心もわかるまでになりました。昔の物語を聞いて、神の恵みの一通りでない事を思い、心にかけて毎朝こちらを向いて拝み、わざわざお参りしたいと何度も思いましたが何かと邪魔が入り、三十年後の今年四十三歳で、このようにお参りができたのも深い契でしょう。永年の気がかりが解決して、嬉しくて涙が落ちます。でもその落ちる涙は昔と同じです。 花見のついでとは信心事に不謹慎なようですが、とにかくわざわざやって参りました。ですから神様もお許し下さって、御参詣を受けて下さると信じます。これだけ深い因縁があるので、この神様の事は特に大切に考え、本を読むときにいつも心にかけ自問しておりました。実は吉野水分神社《みくまりのみねのかみのやしろ》というのがこの事だったかと、以前から気づいてはいました。續日本紀に水分峯神ともあるのが、まさにこれにあたります。場所の状況も確認したくて永年心もとない思いでしたが、今回来て見てたしかにこの周辺の山の峯で、どこよりも高く見える点も疑いもなく、なるほどと納得しました。古い和歌でみくまり山と詠んでいるのがここで、その文字をみずわけと読み違って、別の山と思えそうな名をつけてしまったのが、よく起こる問題でしょう。枕草子では、みくまりを訛って御子守と書き、今ではさらに略してただ子守と言って、生まれた子の栄えをいのる神となっているそうです。とにかく、私の父が祈ったのがこれでした。??諏訪邦夫 現代語訳 ●名医かヤブかは問題でない 奈良には天保生まれの村井古道という外科医で生計を立てながら、奈良まちの町名由来を説いた「奈良坊目拙解」及び、奈良各地で行われていた行事を集録した「南都年中行事」の2大著を遺した奈良郷土学の創始者みたいな人がいる。この人の町医者・外科医としての力量は、やはりイマイチだったようですが、伊勢の本居宣長医師も、奈良の村井古道医師も、あれだけの膨大な研究著作では、一般的対処医療で終わるのは当然すぎる。こういう人物に名医を期待してはいかんのです。 |
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