安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・正倉院裂れ
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( 2016年 2月 4日 木曜日)


●千年後に開蓋された正倉院の唐櫃
天平、飛鳥時代に作られた織物や染織品が正倉院の唐櫃に収められたまま、明治5年の開封まで、およそ1,000年唐櫃の中に閉じ込められていた。これら「正倉院裂れ(しょうそういんきれ)と呼ばれる染織品の整理と修理が京都西陣の名人の助け、というよりこの人物が何年も熱中して取り組んだおかげで、大正14年にその成果を奈良帝室博物館(現国立仏像館)で臨時展覧会として一般に公開され、人々の度肝を抜いたと同時に、染色や織物の業界が復元に取り組んだのである。

その成果が、奈良の土産物はもちろん、京都西陣や特に早く複製織物に成功したK織物社によって、広く出回るようになった。正倉院裂の唐花、唐草模様、ペルシャ模様、などが精細な絹織物になって、風呂敷、テーブル敷き、茶道具からネクタイまで売られている。贈答品によく使われるので、各家庭に一つぐらいあるだろう。単色ものが多いが、中には数百種の色の髪の毛より細い絹糸で織った置物敷きがある。今ではコンピューター制御の大量生産だと思うが、お値段が張る。

上記、博物館での正倉院裂展示会より早く、今も骨董品店で取引されている「正倉院裂れ」と称する小さな布切れがある。接しが90年代の数年、骨董品屋に出入りして、江戸ものは高いので明治ものの小さな置物、根付や香入れなどを集めたことがある。その時、手が出なかったが薩摩切子のガラス製品や、正倉院裂と称する布切れを手にとって似せてもらったことがある。

●大久保利通の無謀なアイデア
以下、「安藤更生、奈良美術研究・御物民間に散らばる」から引用する。
>明治初期の殖産運動の一環として、内務卿大久保利通は太政大臣三条実美に正倉院の染織品を出すよう要請、模様の幾つかを手鏡に貼って各都道府県の博物館に頒布したのである。その量は唐櫃1個分だったという。これは誠につまらないことをしたもので、これを各地に置いて新工芸品製作の参考にさせようと企てたのだが、これはその後、一部が正倉院へ返却されたけれども、大部分は行方不明になってしまった。好事家のコレクションや骨董品屋に今でも時折見かける正倉院裂れはこの時に出たものが民間に散ってしまったのであろう。<

●宝物価値を知った明治政府の狂喜と狼狽 
唐櫃一個分の正倉院宝物を、無駄遣いした明治政府。これって国家の詐欺ではないのか。

また、正倉院を宮内庁管理下に置いた件も詐欺にちかい。正倉院は発足の時から東大寺の所有物で東大寺が管理してきた。明治14年に正倉院の宝物は農商務省の主管として、国家が東大寺から取り上げたのである。明治の廃仏毀釈に直面した東大寺には、もはや正倉院を管理する能力がなかったのだから、詮なきことではあるが、明治17年に宮内省の専管に移した。

起源、沿革から見ても正倉院は東大寺のものなのに、宝物の莫大な価値を知って慌てた明治政府は管理を宮内省に移して、いわば天皇の名において逃げたのではなかったか。それがしは本来は国立博物館と同じように文部省の管轄にあるべきだと思う。






Pnorama Box制作委員会


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