安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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建築家岩崎弘さんの想い出
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( 2016年 2月 2日 火曜日)


●佐保川ベリの岩崎設計事務所
拙子が当地ベルゲンに移住前、数年貯金に励んで平城佐紀町に土地を買った。家を建てる資金はゼロだったが、風致地区でもあり、出入りの大工さんが建築許可を取得しておいたほうが安心できる、というので拙子がアイデアを下書きし、それを大工さんが製図して岩崎建築事務所の認証をもらうため、下長慶橋北詰め(現在レンガ造りの岩崎邸があるところ)に持ち込んだ。

で、しばらく経って設計図を取りに来るようにと事務所から連絡があり、小生が伺った。2階に設計事務所があり、道路側に面した窓が二重窓に作られているのに感心したものです。また、当時はコピー機がなく、事務所員が「青焼き」と呼ばれた青地に白線で出てくる湿式の大きなコピー機と悪戦苦闘していました。この複写機は、紫外線で転写した感光紙を、触るとヒリヒリする現像液に浸して通過させるのですが、慣れないとローラーに絡んで失敗する。

●我が家で偶然の再会
その時初めて長男の一級建築士、弘氏にお会いした。なかなか洒落た家だな、とお褒めいただいた。1970年の暮れのこと、弘氏は40歳前くらいですが、すでに飄々とした風貌で、隅の机でカラーパースを描いておられた姿が懐かしい。そして日当たりの良い南の端に所長の父親がおられた。この高齢の方が奈良女子大の「佐保会館」を設計した岩崎平太郎その人であったとは2012年まで知らなかった。

岩崎弘氏とは後年2002年だったか、西奈良ライオンズの仲間たちとベルゲンに来られた時、一行を我が家に招待したのですが、弘氏がメンバーにおられた。かつて長慶橋北詰めの事務所で顔を合わせたそれがし若造のことはお忘れだったが、以後懇意になり、一方的にお世話になりました。毎年、奥様と海外旅行されていたようで、洒脱な世界の淡彩風景を年賀状にいただいた。その年に旅行した世界のまちのよく水彩画の個展を何度かひらかれていたが、達者でまことに絵の上手な人で、我が家からの景色もスケッチしておられた。

また、毎年10センチぐらいのミニ鬼瓦を焼き物にして友人たちに贈られていたのを、図々しく所望していただいたのが二つ、居間の壁にかけて当地の人に自慢しています。

●無欲な趣味人
弘さんが叙勲を受けられた際、偶然をネット新聞で見つけ、お祝いの電話をおかけしたところ、受賞をまるで他人事のように平常心でおられた。そっちはどうしているかと、関係のない話に花を咲かせる人でした。

拙子が最初の本『宇宙庵吉村長慶』を準備したいた時、下長慶橋のことでいろいろお聞きし、「元の石橋が現在より10mほど西よりにあったこと、昭和初期の河川工事で川幅を広くしたため、下長慶橋を鉄製の桁で次足したこと、そのため構造的に弱くなったのか、昭和の初めに洪水で崩れ、濁流に流された」と言った情報をたくさん教えていただいた。

さらに、自らハシゴを持ってきて前庭から佐保川堤におろしてくださった。護岸壁に長慶が嵌めた2枚の石板を読み解くためである。弘氏は自宅建造に際して切石の護岸壁を個人で増築されたのだが、この時長慶石板を新しい護岸壁にはめ込まれた。
しかし、長慶石板は岩崎家のものではないので、佐保川を管理する市に所有権を質したところ、市は知らないという。岩崎家私有のの護岸壁にあるのだから「ウチノものかなア」と飄々と話す弘さんでした。大仏鉄道研究会の岩崎弘は、こんな本なら売れる! と弘さんのイラストがたくさんある薄っぺらだが楽しい『大仏鉄道物語』を頂いた。

また、晩年は奥様に先立たれ、少し寂しそうでしたが、本ができてお持ちしたところ、大変喜びかつ、売れないだろうなと正確な感想である。そしてではうちからも、と『岩崎平太郎の仕事』という川島智生著の本をいただいた。寄贈署名に2012.1. 角印が押してある。

その後拙著『奈良町奇豪列伝』を準備していた頃、スミスの曲芸飛行に関して『吉野川の河原で親父他の2、3人ががプロペラ機と外人操縦士が写っている写真があったが、探しておきましょう』とのことであった。だがその後体調を崩されたようで、こちらから写真のことは持ち出さなかった。

●叔父の養子と同級だった弘氏
岩崎平太郎は、長男弘氏が10歳の頃、吉野から奈良に移り住む。しかし吉野には詳しかったのだろう、拙子が「小さい頃吉野川でよく泳ぎました。大淀町に多間(ダマ)という親戚があって」といいかけると、弘氏の顔がキっとこわばり、『ダマか、惜しいなあ、戦争で死んでもうて、あんないいやつはおらんかったのに』と懐古された。旧制畝傍中の同級生で、学徒出陣しダマは戦死したのである。

こ叔父の賢かった養子については拙子ら兄弟たちもよく聞かされていて、大淀の多間蝶々宅にその養子の仏壇があり、肉弾三勇士の置物が添えられていた。叔父は代わりに拙子か兄を養子にくれと母に何度も言ってきたが、こちらにその気がないのだから話にならなかった。そんな奇縁もあった弘氏が他界されて年月もたった今、むしょうに想い出している。






Pnorama Box制作委員会


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