安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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天正使節の洟紙
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( 2016年 1月 24日
曜日)


●天正遺欧少年使節
九州のキリシタン大名3人の名代として天正10年(1582)、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの3人が、まだ13〜14歳の少年が、付き添いが数人いたといえよく行きました。みな勇敢な日本人でありました。この写真を見るとよくわかります。

発案者のヴァリニャーノはもちろん、宣教と浄財集めにスペイン王とローマ教皇に拝謁させるのだが、ゴアまで来てここから先はアジアでの職務放棄になると言われて、随行を諦める。代わりの神父が付き添い、イエズス会の日本語通訳も同行したというから、周到である。

●少年使節の使った洟紙
渡欧した少年たちが、途中和紙で洟をかむことがあっただろう。と仮定して、当時のヨーロッパで洋紙が一般市民に普及していない頃である。上等なら鞣し革、普通はボロギレにすぐ褪色するインックしかなかった。日本の柔らかい和紙のチリ紙などありようもなく見たこともない。で、彼らが洟をかんだ和紙の紙切れを、争って拾ったに違いないと思うのだ。

というのは、天正少年使節が出発した10年後に、武将・支倉(はせくら)六衛門が伊達政宗の名代として、慶長硫黄使節団60名を率いて出航した。国産のガレー船に乗ってアカプルコ(スペイン領メキシコ)に上陸、大西洋側のベラクルスから別の船に乗船して一行はぶじスペインに到着、フェリペ国王に謁見した。

●支倉六衛門常長の洟紙
彼ら一行が地中海を公開してフランスのサン・トロペ村に寄港したのであるが、その時一行の日本人はチリ紙で洟をかみ、当たり前ですわな、道に捨てたのです。この辺りは今日のエチケットに反するが、洟を紙でかむ習慣がなく、もちろん洟紙などない欧州人だ。「地の果てなるジパング国」の珍しい風習関心をひき、先を争って拾ったという。それも主席の支倉六衛門の洟紙が最も尊ばれた。これはサン・トロペ候ドゥ・シュフラン夫人の日記にある実話。と、キリシタン研究の碩学故松田毅一教授の著書にある。

斯様なプリミティブな欧州国王や教皇に、高価な焼き物や茶器を贈っても価値がわからない。名刀もわからない、屏風絵ぐらいが適しているが、洟紙を献上すれば大いに歓ばれたであろうに。






Pnorama Box制作委員会


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