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奈良零れ百話・大黒天から大極殿へ
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( 2016年 1月 16日 土曜日)
●ダイコクテン? ダイゴクデン、大極殿だ! さて、佐紀町の美濃部といえば旧家、小生と同年の溝辺くんは、おそらく平城宮趾保存に物心両面で棚田嘉十郎に協力した溝辺文四郎のひ孫ではないかと思っている。 溝辺家は大極殿の真裏.内裏趾のすぐ後ろにあたり、文四郎さんは一度は茶業のため神戸に移ったが引退して佐紀町に戻ってきた。そして、熱心に付近の史跡や御陵を案内していた。その中に奈良県技師である関野貞(のち東大教授)がいて親しくなったのであるが、田んぼのなかに小高い土壇の草地があり、「これは何だ」と関野貞が尋ねると、土地の者は「大黒芝とか大黒天と呼び習わしている」という返事。 そこで関野貞はこの土壇こそは「大極殿」の趾ではないかと閃いた。明治32年のことである。 この土の基壇は、かなり大きい。東大寺南大門の基壇に匹敵する広さで、2mの高さがあるため、水田にならなかったのであるが、拙子は電車から見ていたのかどうか、当時は遺跡などに興味なくまるで注意していなかったせいで覚えがなく残念。 ●間違いだらけの関野貞 また、大極殿を内裏の遺構と誤認、中宮を内裏の別称と見なし、実際の内裏位置に対して何ら注意を払わなかった。この不十分な研究で工学博士となったのだから、一人合点の強い先生である。それだから喜田博士は韓国、中国を含む超人的な量の論文のを残したと言える。 ▲喜田貞吉はは溝辺文四郎と懇意になり、平城京に関する詳細な論文で文学博士になるのであるが、ここでもイージゴーイングな関野論文と異論が明らか。ある時、文四郎が東京に移った関野博士が来訪し、『正月にきだという人が見えた』と話すと、関野博士は『溝辺さん、大変な人に平城京の真相を教えたのですね。あの喜田くんとは平城京の研究で論争中なのだ。これで私は苦戦です』と答えた。平城京研究の根本資料たる北京極を教えたからである。(大和100年の歩み,社会・人物編)▲ ●古地図にあった名称 ということは関野貞がちょいと古地図を調べれば、大げさなヒラメキは言わずもがな、大極殿も内裏跡も判明できたのである。 ●会津八一「南京新唱」より はたなかの かれたるしばに たつひとの
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