安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・十津川郷士の奉公人
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( 2015年 12月 17日 木曜日)


●田舎の家
拙子の母は、吉野郡の南に接する高市郡の山中、高取にある。代々高取城に仕えていたが、幕末担った越智氏が城主の頃、もう戦争もなくなったので、郷士として農業を営むようになった。それでも「いざ出陣」という際には籠に乗って城に参上する。そのためのホイカゴや、大石内蔵助がかぶっていたような黒塗りの笠などは、明治になって土蔵にしまってあった。

家の造りは、農家と言え前面は高い石垣、後ろは断崖に接していて、造りは厳しい。敷地の中の一隅に小作人の住む家が井戸の周りに並んでいた。母屋の水は裏の断崖の上から清水を竹の筒で炊事場の貯水槽に呼び込んで使っていた。

農地改革で小作人が独立していなくなり、戦争中は大阪の親戚がここに疎開していた。

●農繁期の助っ人
最近、田舎の家の中にあった、あの小さな粗末な長屋について、家族から聞いた話がある。
明治になって小作人制度が廃止され、農地も山も激減したが、それでも農繁期には人手がないと家族だけではきつかった。そういう農家に手伝いに来る十津川の青年たちがいた。

田舎のあの長屋に戦前は十津川の人たちが農繁期の手伝いに住み込みにきていたという。
小生が物心ついた頃にはこの例年の慣習が廃れた後で、実際には見たこともなく知らなかった。最近、家族からこの十津川郷士の末裔たちが農繁期の手伝いに来ていたことを知ったのである。

●十津川郷士の血脈
十津川村は天領として、奈良時代から租税をまぬがれ、徳川時代も天領として年貢を免除され、加えて士分を与えられた家も少なくない。なぜかといえば山深い吉野の十津川村では農地が猫の額ほどもなく、木の実と狩猟で食べつないでいたからである。年貢が取れるだけの米の収穫がなかったからに他ならない。加えて南朝の血筋を持つ者や、武芸が盛んで、京都御所を警護する十津川郷士の詰所があったほど、平地の百姓にはない尊王の気品があった。

十津川村の面積は奈良県の半分近くあり、日本最大の面積を持つ村である。ここへ逃げ込めば追っ手が諦める時代が昭和の初めまで続いていた、いわば十津川共和国と言えそうな、国中の国であった。だが、隔絶された十津川の社会は時代の推移に取り残されたのか、住み込みで働く青少年に十津川出身者が多かった。

●吉野黒滝のKニイちゃん
吉野の大淀町に親戚があり、少年の頃、夏休みに何日も遊びに行った。叔父さんは数期大淀町長でしたが家業は自転車屋さん。そこへ十津川・黒滝から住み込みで働いていたKチャンがいた。実に姿勢が良くハキハキしていて、食事に正座し、真っ直ぐな姿勢でおかゆをすする動作の始終がお見事だった。我が家の放任主義とはまるで違う躾である。

言葉遣いがチト違った。何だったか、物を見つめていて『おぉ、うつくしいのう』と言った時には驚いたな。小生たちは「きれいやな」というが、美しいという言葉は恥ずかしくて口に出したことはなかった。他にも抑揚が関西弁ではなく、今思うと、どうも古い公家言葉、武士言葉の名残があるのかもしれない。

また、毅然として泣き言を言わないのも立派だった。小生は隣の布団で寝ていたが、ある夜、Kニイちゃんが布団の中でさめざめと泣いていた。仕事に小言を番頭のヨッちゃんから食らったのだろうか、住み込み奉公では悲しいことも多かっただろう。黙って耐えて、ふとんの中で一人泣いていた。他にも十津川の奉公少年がいたが、懐かしいのは黒滝のKニイちゃんである。






Pnorama Box制作委員会


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