安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話/奈良名奉行・溝口信勝
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( 2015年 12月 12日 土曜日)


●弁護士中坊公平は初代奈良奉行中坊秀政の係累
奈良奉行は初代の中坊秀政(飛騨守)から最後の奈良奉行古俣景徳(伊勢守)まで42代の奉行がいる。中坊公平という日弁連会長で著名な人権派弁護士さんがおられましたが、奈良奉行だった中坊家に連なる血筋なのでしょう。中坊公平は祖父の代から京都出身だが、秀政の中坊一族は大和の土豪であった。公平氏の容貌は大和顔である。

●42代の奉行は玉石混交
しかし42代もの奉行が入れ替わり立ち替わり江戸幕府から任命され赴任してくるのだから、その人格・能力は玉石混交であり、ほとんど江戸住まいのままの奉行もいた。であるから、川路聖謨のような極上の玉は目立って有名である。

川路聖謨が5年の任期を終えて大阪奉行に転任するとき、引っ越しには何なりと使役くだされと「困窮者」どもが申し出、出立の日には救済された貧民たち数百人が数里も後をついてきて名残惜しく見送ったという。川路聖謨は善政だけでなく、自腹を切って貧民救済の基金を立ち上げているところが、抜きん出ている。で、聖謨に次いで奈良市民・県民から愛された奉行というと、旗本の溝口信勝でしょうか。

●名奉行・溝口信勝
寛文10年(1670)、奈良奉行に任ぜられた旗本・溝口信勝はもう五十を超えた、江戸時代では老人と言われる人物だった。しかし頑固な老人でなくて、酸いも甘いも噛み締めた経験豊富な旗本であり、情のある老人でした。

●犬狩りの方法を変える
まず奈良に赴任するや、犬狩りの方法を形だけのものに変えさせた。犬狩りというのは春日の神鹿を野犬の襲撃から守るため、興福寺の誠直が強かった近世までは、奈良町の7カ所に、犬入るべからずの柵門を設け、厳しく取り締まっていたが、江戸時代に興福寺の威勢が衰えると犬が横行した。それで毎年「犬狩り」と称して、興福寺や東大寺の衆徒たちが狩り集めた野犬を、東大寺4箇所、興福寺2箇所、ほか奈良町の各所で犬のアキレス腱を切って、奈良町から放逐する儀式を行なった。

さて溝口信勝は初めてこの儀式を見て、残酷で犬が不憫と思い、長年続く儀式はやめなくても良いが、犬の筋は切らずにマネだけにしておけ!奈良町の外に追放すれば、犬たちは怖くて町に近づかなくなる、というわけ。

犬狩りがいつ廃止されたか定かでないが、頃は将軍綱吉が「生類憐みの令」1687を発してからのようだ。20数年後にこの綱吉の個人趣味的な令が廃止になった後も、犬がりは行われていない。

●鹿の角切り
神鹿が人に危害を加えたり、農作物を荒らすことは今に始まったことでなく、奈良奉行の彼は鹿の角きりを提唱、興福寺、特に渋る一乗院主を説得して寛文12年に角きりを初め、こんにち春日神社が主催する春の行事に発展した。

一乗院の院主は、京都の若い公家がたらい回しにするようなポジションだが、位階は奈良奉行よりはるかに上で、正月には奈良奉行が一乗院に新年の挨拶に向かう習わしであった。とは言ってもこの場合、若い院主より手練手管は老旗本が数段うわてである。

また鹿殺しの犯人を処刑しようとした興福寺に対して、犯人引き渡しを拒否。奉行が裁くことを慣例とした。奈良町に隠然とした力を持っていた興福寺から奈良奉行が権力を少しづつ取り上げ奈良奉行の権威を確立する大きな一歩となった

溝口信勝は他にも薪能見物席の桟敷き札を困窮者に与えて、売って生活の足しにさせたり、おん祭りに御旅所に置いた賽銭箱の賽銭を貧者に分配するなど、今では法的に不可能な善意の福祉策を行っている。

奈良奉行在職21年という記録を持つ溝口豊後守信勝は奈良を気に入っていたと思うのだが、奈良を去ってからは上級旗本の退職者(寄合)となって亡くなるまで江戸住まいを続けた。生涯江戸の旗本に誇りがあったのだろうか。







Pnorama Box制作委員会


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